蚊遣り
「八左ヱ門」
声を掛け近寄っていくと、八左ヱ門は顔を上げにこりと笑った。
「兵助、おかえり」
「何してるんだ」
「蚊遣りだよ。最近暑いから、蚊が出るだろ」
そう言いながら八左ヱ門は、どうやら蚊に食われたらしい首筋をぽりぽりと引っ掻いた。どれ見せてみろと言って覗き込めば、耳の少し下辺りがぽつりと赤く染まっていた。ずっとそうして引っ掻いていたのだろう。縦に走った引っ掻き傷からじわりと血が滲んでいる。
「血が出てる。痛くないのか」
「痛くはないんだが、とにかく痒くてさ」
八左ヱ門は痒みを堪えるように少しだけ首を竦めると、手に持った棒で火を突いた。炎が踊るように揺れる。
「昨日の夜食われたんだ。三郎なんか、美味しくないのか全く食われてないのに、俺はもう何箇所も食われてるんだ」
八左ヱ門はそう言って不満げに唇を尖らせる。そうしてまた手をやって掻こうとするので、手首を掴まえて止めさせた。代わりに屈みこんで八左ヱ門の首を傾げさせ、血の滲んだ皮膚に唇を押し付ける。前歯で皮膚を柔く食み、ちゅっと音を立て吸う。
「兵助」
焦ったような声を上げ身体を仰け反らせた八左ヱ門から、ふわりと青い草の匂いが香る。
きっと凶も生物委員会で菜園にでも入っていたのだろう。下級生を連れて野原に寝転んでいたのかも知れない。夏の日向で嗅ぐような、気持ちの良い匂いだった。
これは…蚊でなくても誘われる気持ちが良く分かる。
兵助はそんなことを思って少し笑った。
八左ヱ門の隣に腰掛け、その肩にこつりと頭をぶつけて寄りかかる。日に焼けた八左ヱ門の髪がふわりと風にそよぐ度、日向の匂いが香る。
「兵助」
「うん?」
「重いぞ」
「うん」
頷いて、だがそのままでいると、大きく溜息を吐く気配がして頭を軽く小突かれた。ちらりと八左ヱ門を見れば、呆れたような横顔がある。
「蚊に食われても知らんからな」
そう言いながら八左ヱ門は蚊遣りの火を掻き混ぜた。大きく揺らいで天に向かっていく煙を見上げる。
「…八左ヱ門」
「ん」
「好きだよ」
突然の告白に、八左ヱ門はぶっきらぼうに、おうと応えた。その手が照れたように火を掻き回すので、散った煙に少し咳き込みながら、兵助は笑った。