虫出しの雷
「…せっかくの休みなのに、雨なんてついてない」
八左ヱ門が鈍色の空を見上げ、残念そうに言った。
夜明け前に降り始めた雨は朝になっても上がらず、長屋の屋根をしとしとと濡らしている。
晴れたら近くの梅林へ花を見に行くつもりでいた。これでは花見どころか花が散ってしまっているかも知れない。
「…まぁ、梅の花は長いから、次の休みに行けば良いだろ」
兵助がそう言うと、「そうだけどさ」と八左ヱ門はつまらなそうな顔をする。
腕組みをして空をじっと睨んだところで、雨が止むわけではないのに。
子供のようなその姿に兵助は笑った。
「三郎なんて食堂のおばちゃんにお弁当頼んでたんだぞ。どうするんだ」
「おばちゃんの弁当ならどこで食べたって美味しいだろ」
「そりゃそうだけど」
やっと空から視線を外して、八左ヱ門が振り返る。空を睨んでいたのと同じ顔を、ぐいと兵助に近付けてきた。
「兵助」
「うん?」
「お前、もしかして花見に行きたくなかったのか」
「どうしてそうなるんだ」
「全然残念そうに見えない」
不満気な言葉と共に、鼻先に八左ヱ門の指が突き付けられた。兵助はそれをさりげなく手で退けると、「そんなことはない」と答える。
「おれだって楽しみにしてたぞ」
「そんなふうに見えないけどな」
機嫌を損ねたのか、いやに突っかかってくる。
「花見に行けなかったからっておれに当たるなよ、八左ヱ門」
溜息をつきながら言うと、頭を小突かれた。
「何するんだ」
突然のことにびっくりして、八左ヱ門を見返す。八左ヱ門は「ふん」と言って、顔を逸らしてしまった。
小さな子供のような態度に呆れつつ、そっちがそのつもりなら、と兵助も八左ヱ門から顔を逸らして背を向けた。
だいたい人の部屋に来ておいて、その態度は何なのだ。嫌なら出ていけば良いのに。
そんなことを思いながら、読みかけていた本を開いた。
雨足が強まってくる。八左ヱ門は黙り込んだまま空を睨んでいる。
読んでいるはずの文章の意味が全く頭に入ってこず、ただ無駄に本の頁をはらはらと捲った。
遠くの空が渦巻いている。
どうも、荒れてきそうだな…。
そう思い、肩越しにちらりと空を見ていると、遠く雷が響き始めた。
「…虫出しの雷だ」
八左ヱ門がぽつりと呟いた。
「…むしだしの、らい?」
訊き返すと、八左ヱ門がこくりと頷く。
「この頃に鳴る雷は、虫達を冬眠から目覚めさせると言われているんだ」
「へぇ…じゃあ、そろそろ生物委員会の出番だな」
少し前、言い合いをしたことを気まずく思っているのだろう。八左ヱ門は少し照れくさそうな顔をして振り返り、「そうだな」と笑った。
それから、また黙って、次に何かを言おうとして八左ヱ門が口を開いたその時、部屋の戸の狭く開いた隙間から、八左ヱ門と同じ生物委員の孫兵がひょこりと顔を出した。
「久々知先輩、失礼します。竹谷先輩、こちらにいらっしゃいましたか。雨が止んだら一年生を連れて山を散策しに行きませんか?」
孫兵もあの雷を聞いていたのだろう。まず兵助に対し頭を下げ非礼を詫びてから、八左ヱ門の前に膝をついて、顔を輝かせながらそう提案する。
「おお、良いな。行こう行こう」
そうと決まれば準備だ、と八左ヱ門が立ち上がる。孫兵が先に部屋を飛び出して行き、それを追って部屋を出て行こうとしていた八左ヱ門がふと立ち止まった。
「…兵助」
名前を呼ばれ「うん」と応えた兵助に、八左ヱ門は頬をぽりぽりと掻いて、視線を逸らした。それから、
「悪かったな」
まるで怒っているような声でそう言い捨てて、逃げるように走って行ってしまった。バタバタという足音が、雨の音に紛れて聞こえなくなると、兵助は思わず吹き出して一人笑った。
虫出しの雷が、近付いてくる。
雷の後はきっと、綺麗に晴れるだろう。
「おれも一緒に散策に行こうかな…」
八左ヱ門と一緒に春の山に行き、木の皮の裏や土の中を覗いて歩くのはきっと楽しいだろう。
「よし!」
兵助は開いていた本を閉じ、立ち上がってぐいと伸びをした。吹く風も雨も、兵助の好きな、春の匂いがしていた。