半夏生
「…荒れそうだな」
少し掠れた声がぽつりと呟いた。
「起きてたのか」
「うん」
背中を向けていた八左ヱ門が寝返りを打って仰向けになった。触れ合う肌の面積が大きくなり、またざわざわと心が騒ぐ。
空き部屋に持ち込んだ布団はひとつだけで、二人仰向けになって並ぶとどうしてもはみ出してしまう。
もうひとつ、持ってくるんだった。
触れ合った腕を動かせないまま、兵助はそんなことを思った。
八左ヱ門がまた、もぞりと動く。二人の体の間にあった手に八左ヱ門の指が触れ、兵助はぴくりと震えた。熱い指は兵助の手の平の皺を確認するようにするりと肌を撫でた後、指に絡んできた。ぎゅっと握りしめられた手に、八左ヱ門の顔をそっと伺う。八左ヱ門は怖い顔をして天井を睨んでいた。
「はち…」
「後悔してるとか、言うなよな」
名前を呼ぼうと上げた声は、怒ったような声に遮られる。
「言ったらぶっ飛ばすからな」
そう言った八左ヱ門の指が強張っている。兵助はじっと八左ヱ門の横顔を見つめた。
「……後悔なんか」
後悔なんか、するはずがない。
ずっと八左ヱ門のことが好きだったのに。ずっと、こうして触れたいと思っていたのに。後悔なんかするはずがないじゃないか。
兵助は小さく笑って八左ヱ門の手を握り返す。強張った指を溶かすように、優しく握りこんだ。指を絡めたままのその手を引き寄せ、八左ヱ門の骨ばった指に唇を付けた。
「八左ヱ門は、怖くないか?」
「怖いって…兵助が?」
八左ヱ門が不思議そうな顔をして、兵助を見る。鼻先がつくほど間近で合った視線に急に恥ずかしくなったように、八左ヱ門がふと目を瞬かせた。
「どうして。そんなこと思ったこともないぜ」
なんでもないことのように言って、首を振って。八左ヱ門の髪が兵助の頬に触れる。兵助が何も言わずにいると、繋いだままの八左ヱ門の手の甲が、兵助の頬に触れた。
「兵助」
まるで慰めるような声で名前を呼ぶ。
その声を、手の温もりを、身体の奥にある熱を知ってしまったから、貪欲になる。触れても触れても、足りない。
ざわざわと心が騒いで、神経の全てが八左ヱ門に向かっていく。
ごめん、と兵助は囁いた。八左ヱ門が悲しげな顔をする。違うんだ、と八左ヱ門の髪を一房掴んで唇を寄せた。
「もう八左ヱ門が嫌がっても、俺は手を離せないから」
ごめん、と繰り返した唇に、八左ヱ門が唇をぶつけてくる。
「それ以上謝ったら、ぶっ飛ばすからな」
触れるだけの口付けの後、八左ヱ門はそう言って笑った。
「俺は嫌だなんて思ってないし、怖いとも思ってない」
兵助の大好きな顔で笑った。
「兵助が好きだ」
目を細めて、八左ヱ門が言った。少し呆れたような、照れたような、そんな声だった。
ああ、好きだな…。
兵助は心の中にじわっと広がっていくその想いに、笑おうとして上手く笑えず、八左ヱ門の身体をぎゅっと抱きしめた。
そうしていないと泣いてしまいそうだった。
「好きだ」
溢れ出してくる言葉をどうにか口にした。搾り出すようなその声に、八左ヱ門は「うん」と頷いて、兵助の髪をくしゃりと撫でた。