夕焼け
壷の中身を確認すると、兵助はそれを伊助へ手渡した。「はい」と壷を受け取った伊助は、少し重そうにしながらそれを火薬庫の奥へと運んでいく。
火薬庫の中は暗い。火気を持ち込むことは禁止されており、外からの明かりを頼らなければならず、差し込む太陽の光を追うように蔵の中を移動しながら作業をする。
少し日が傾いてきたかな…。
自分がいる場所よりも半身ずれた日向に移動しながら、兵助は外を窺った。その時、ひょいと八左ヱ門の顔が火薬庫の中を覗きこんでいるのが見えた。
「八左ヱ門、どうした」
八左ヱ門が火薬庫に来ることは珍しい。タカ丸に会うのが嫌で最近は滅多に寄り付かなかった。
髪結いでもあるタカ丸が八左ヱ門のひどい癖毛をどうにかしたがっているからだ。八左ヱ門は髪のことをあまり気にしていないが、固く方向の定まらない髪は、タカ丸の美意識をひどく刺激するらしい。
「…タカ丸さん、いないよな?」
兵助と目が合うと、警戒したような声でそんなことを言う。
「今日は俺と伊助だけだ」
答えると、ほっとしたように火薬庫の中へ入ってきた。誰も訊いていないのに、「別に、嫌っているわけではないんだぞ」と言い訳をする。
「雷蔵が中在家先輩からボウロをもらってきたんだ。生物委員会で分けたんだが、余ったから持ってきた」
八左ヱ門はそう言って手に持っていた風呂敷を持ち上げて見せた。火薬の匂いに混じりふんわりと広がった甘い香りに、伊助が目を輝かせて近寄ってきた。
「わぁ、良い匂いですね」
「うん。いっぱいあるから長屋に持って帰って皆で食べると良い」
八左ヱ門はそう言いながら慣れた手つきで伊助の頭をぽんぽんと撫でた。
生物委員会には下級生が多いので、普段からそうやって後輩にしているのだろう。時折、同級生にもその癖が出るので、三郎なんかは頭を撫でられる度呆れたような顔をしている。
「…丁度良い。日も傾いてきたし、今日はこの辺で終わりにしよう」
兵助は手元に広げていた台帳を閉じて棚に仕舞った。伊助の背中を押して蔵の外へ促す。
空を見上げれば鮮やかな水色に西日が混ざり、たなびいた雲が薄紅に染まっていた。
八左ヱ門が風呂敷を開けボウロを一切れ取り出す。その残りはまた風呂敷に包んで、伊助に渡してやった。ありがとうございます、と伊助が嬉しそうに笑って、一年長屋へと走っていくのを見送った。
「俺はさっき食べたから」
そう言って八左ヱ門がボウロを差し出してくる。受け取ったそれを齧る。まだ仄かに温かかった。
どうせ長屋で会うんだから、後で渡してくれても良かったのに。
八左ヱ門のことだ。火薬庫まで自分を探してわざわざ持ってきてくれたことに深い意味は無いんだろう。相手が三郎でも、勘右衛門でも、雷蔵でも、きっと八左ヱ門はそうしたに違いないのだから。
それでも、そんな些細なことを嬉しいと思ってしまう。
「…八左ヱ門」
「うん?」
ボウロを持っていない方の手で、振り返った八左ヱ門の手を握った。
「空が綺麗だから、少し遠回りして帰ろう」
立ち止まり、そう誘う。二人の間でぴんと張った腕を、八左ヱ門は居心地が悪そうに少し揺すった。
「良いけど、手放せよ」
目元を夕焼け色に染めて、八左ヱ門が言う。兵助は笑って、その手を強く引くと二人の距離を縮めた。
「一年生の頃はよくこうして歩いたじゃないか」
授業の後、夕焼け空を眺めながら皆で並んで歩いた。歌を歌ったり、しりとりをしたり。雲の姿を見て、あれは猫に似ているとか犬に似ているとか、そんな他愛も無い話をして。
「今日はそんな気分なんだ」
兵助が言うと、八左ヱ門は「どういう気分だよ」と言いながら、それでも手を握り返してきた。八左ヱ門の手は小さな子供のように熱を持っていて温かかった。
今しばらくは、この熱は自分だけのものだ。三郎のものでも、雷蔵のものでも、勘右衛門のものでもない。他の誰のものでもない。
「…とても良い気分だよ」
兵助は夕焼けに染まった頬を見つめてそう告げると、八左ヱ門の手をぎゅっと握った。