雨宿り
八左ヱ門が額に浮かんだ汗を拭い、木々の間から見える空を仰いだ。少し前から出てきた風が、厚い灰色の雲を運んできている。
「兵助、雨がきそうだ。雲が渦巻いている」
「降り出す前にもう少し進んでおこう」
懐にある密書を着物の上から押さえ、兵助は脚を早めた。密書は濡れないように二重に包んではあるものの、風雨が強まれば無事に持ち帰れるか分からない。
もし滲んで読めなくなってしまうようなことがあれば、再びマイタケ城に戻らなければならない。
それだけは遠慮したい。
「…今日の夕飯は餡かけ豆腐だ。それまでには帰りたいな」
少し前を行っていた八左ヱ門を追い越しそう言った兵助に、八左ヱ門が呆れたように溜息を吐いた。
「…わかった。頑張ろう」
諦めたような声がそう言って、駆け出した八左ヱ門がまた兵助を追い抜いていく。
「俺は魚定食を食べるぞ、兵助」
肩越しに振り返って、まるで誘うように笑うので、兵助も駆け出して八左ヱ門の後を追った。
しばらく山道を進んで、川を見下ろす丘に差し掛かった時だった。ぽつりと頬を打った雨に兵助は立ち止まり、空を見上げた。いつの間にか頭上を覆った灰色の雲からぽつぽつと落ちてくる雨の間隔が短くなり、あっという間にざぁあと音を立て降り始める。
「あの木の下に入ろう」
辺りを見回し葉が生い茂った大きな木を見つけ、八左ヱ門が駆けて行った。
手招かれて木の下へ入り、雨の当たらない場所を探して座った八左ヱ門の隣に腰を下ろす。
「すぐに通り過ぎてくれると良いが」
木の幹にぐいと背中を押し付けて伸びをしながら、八左ヱ門が呟く。その横顔がすっかり雨に濡れてしまっているのを見て、兵助は手拭を取り出し八左ヱ門の頬を拭いた。
「いいよ、自分のがあるから」
そう言って兵助の手を避け、八左ヱ門が首を傾げるようにして俯き、濡れた肌に張り付いた髪を掻き上げた。
普段は男らしい顔が、俯くとひどく優しい表情になる。
この顔を、生物委員会の後輩達はいつも見ているんだろうな…。
ふと兵助はそう思って八左ヱ門の横顔をじっと見つめた。
普段日に焼けることのない項の柔らかな皮膚をぐいと撫でる手の平。八左ヱ門はそれを着物の襟から差し込んで、肩を撫でた。着物が濡れているのが気になっているのかも知れない。落ち着き無く動く指の動きが布地の上へ浮かんでくる。
それがどうもいやらしくて、兵助は少し目を逸らした。
こんな時に、どうしてか思い出すのは、抱き合ったときに見せる八左ヱ門の表情ばかりで。
兵助と名前を呼ぶ押し殺したような声。背中を抱く手の感触。脚を広げさせた時に見せる戸惑ったような表情。快感を訴えしがみついてくる熱い身体。
抱きたいな…。
湧き上がってきたそんな気持ちを誤魔化すようにけほりと空咳をした兵助に、八左ヱ門が「大丈夫か?」と心配そうな声を上げる。
今はあまり近くに寄らないで欲しいのに、二人の間にある僅かな距離に手をついて、八左ヱ門が顔を覗き込んでくる。
散々肩を撫でていたからだろう。緩んだ着物の襟から、綺麗に浮き上った鎖骨と、その下にある胸の薄紅がちらりと見えた。
顔を逸らせば、「熱があるのか?」と八左ヱ門が兵助の頬に触れた。
熱い手の平に、心臓が跳ねる。
そういえばもう、十日も八左ヱ門に触れていない。
「なんだか顔が赤いぞ」
そう言われて、お前の所為だとも言えず、「そうかな」と曖昧に応えた。
空が一瞬眩く光り、少し後に雷鳴が轟いた。八左ヱ門が兵助から手を離し、体を乗り出して空を見上げる。
離れていく熱に、兵助はそっと溜息を吐いた。
「止みそうにないな」
ぽつりと八左ヱ門が呟く。
「夕立だ。すぐに通り過ぎていくだろう」
兵助は応えて、木の幹に寄り掛かると目を閉じた。
こんな雨の中で二人きりでいると、余計なことばかり考えてしまう。
八左ヱ門はきっと、こんな気持ちにはならないんだろう。だから隣にいる俺が何を考えているかなんて、気付くはずもないんだ。
今すぐ押し倒して、着物を剥いで、その肌に口付けたいと思っているなんて。
想像もしないんだろうな…。
膝を抱えて、溜息を吐く。そんな兵助の頭を、八左ヱ門の手の平がぐいと引き寄せた。
「…八左ヱ門」
驚いて名前を呼ぶ間に、引き寄せられた頭が、いつの間にか身体を寄せてきていた八左ヱ門の肩にこつりと当たった。
「少し寝てろよ。雨が止んだら起こしてやるから」
朝から歩き通しで疲れたんだろう、と言った八左ヱ門の吐息が兵助の耳を擽る。
風に舞う雨の匂いに微かに混じる、八左ヱ門の汗の匂い。
「ああ、もう…」
思わず唸った兵助に、八左ヱ門が「うん?」と応える。まるで下級生にするように、頭を撫でる手。
当然のように甘やかすその手の感触が、嫌いなわけではないけれど…。
なんでこんなに鈍いんだ…。
兵助は髪に触れる八左ヱ門の手を掴んで引き寄せると、傾いてきた八左ヱ門の体を抱き締め、口付けた。
「へい、すけ」
重なりあった唇の間から、八左ヱ門が驚いたような声を上げる。それさえも奪い取るように、開いた唇の間から舌を差し込んだ。角度を変え、何度も八左ヱ門の唇を食む。柔らかな唇と舌を散々舐った後、優しく唇の端を吸って唇を離した兵助に、八左ヱ門が息を荒くしながら「なんだ、急に」と言った。唇が濡れて赤くなっている。熟れたようなそれを、兵助は指で拭ってやった。それから、何か文句を言おうとして口を開いた八左ヱ門の唇に今度は触れるだけの口付けをして黙らせた。
八左ヱ門の胸元へ手を伸ばし、大きく開いた着物の襟を引き寄せて併せ、撓んだ布を袴の中へぐいと押し込んで正す。
「…八左ヱ門、あまり煽らないでくれ。これでも我慢してるんだ」
「我慢って…」
呟いた八左ヱ門の頬が、じわりと赤くなった。
「こんなとこで、何考えてんだ」
ぼそりと言って顔を逸らしていく八左ヱ門に、笑って「ごめん」と謝る。
なんとなく離れていった身体を引きとめるように手を繋ぐと、八左ヱ門がぎこちなく指を折って握り返してきた。
お互い何を話すでもなくただ指を絡ませている内に、ぽつぽつと地面を打つ雨の音が弱まり、遠くの空が明るくなってきた。
隣で、同じように空を見ていた八左ヱ門が、兵助の手を離して立ち上がる。
突然空っぽになった手の平がなんだか寂しくて、手を握りこんだ兵助に、八左ヱ門が空に向かい突き上げるように伸びをしたその手を、勢い良く差し出してきた。
「そろそろ行こうぜ、兵助。餡かけ豆腐食べるんだろ」
そう言って八左ヱ門は笑った。空っぽになった兵助の手を開かせ、ぐいと掴んでくる暖かな手の平。
八左ヱ門はいつも、俺が欲しがっているものをくれるな…。
「…八左ヱ門、好きだよ」
そう告げると、赤くなった頬を隠すように空を仰いだ八左ヱ門の手を、兵助は笑いながら握り返した。
いつの間にかすっかり雨は止み、雲が晴れた空からきらきらと太陽の光が降り注いでいた。