山葡萄
「いいぞ、虎若。もうちょっと頑張れ」
威勢の良い声に、何をしているんだろうと身を乗り出して見れば、何やら大きな盥の中に一年生が入って足踏みしている。盥は二つに重ねてあり、どうやら上の盥で絞った何かを、下の盥に溜めているらしいと気付いた。
「竹谷先輩、まだですかぁ」
盥の中に入っていた孫次郎が疲れたような声を上げる。八左ヱ門は「じゃあ交代だ」と言って孫次郎を抱き上げて地面に下ろし、代わりに今度は三治郎を抱き上げて盥に入れる。盥の中で三治郎が虎若とふざけるように飛び上がって、その揺れに一平が転びそうになると、八左ヱ門は一平も抱き上げて盥から下ろした。
まるで父親だな…。今日は孫兵はいないのか。
「…八左ヱ門」
声を掛けると、一平の手を掴んだまま八左ヱ門が振り返った。
「おう、兵助」
屈託無く笑って手を振ってくるそれに、手を振り返す。
「何をしてるんだ」
「裏山で山葡萄を取ってきたから絞ってるんだ」
来いよと手招きされ、兵助は菜園の中へ入った。所狭しと植えてある植物を踏まないよう飛び越えて近付く。
「久々知先輩、こんにちは」
一年生が声を揃えて言った。それぞれの顔を見て「やぁ、こんにちは」と挨拶を済ませ、兵助は盥の中を覗き込んだ。
虎若と三治郎が乗っている板の下に、晒に包まれた山葡萄が入っている。二人が足踏みをする度に晒からじわりと果汁が滲み出していくのが見えた。
「山葡萄をこれだけ集めるのは大変だっただろう」
「皆で集めたんだ。な」
八左ヱ門は笑いながら、一年生の頭を順番に撫でた。嬉しそうに一年生が笑う。葡萄色に染まった小さな手が、八左ヱ門の手を甘えるように握った。
皆、八左ヱ門のことが好きなんだな。
自分も一平の頭を撫でてやりながら、兵助は笑った。
「よし、そろそろ良いだろう。やりすぎると渋くなるからな」
八左ヱ門の声に、虎若と三治郎が盥から飛び降りた。八左ヱ門が上の盥を退けるのを手伝う。やはり盥の底に穴が開いていて、そこから零れ出た果汁が下の盥に溜まっていた。
八左ヱ門は用意していた水筒を取り出して慎重に果汁を移すと、一本ずつ一年生に渡した。虎若にはもう一本渡して、孫兵に届けてくれ、と伝える。一年生達はわぁと歓声を上げながら、水筒を握り締めて菜園を出ていった。
「孫兵はどうしたんだ」
「どうもじゅんこが風邪を引いたらしい。最近急に涼しくなったからな。付き添って看病してるよ」
普通のことのように八左ヱ門が言うので、兵助も「そうか、大変だな」と答えた。
三郎辺りが聞けば「じゅんこと言ったって、ただの毒蛇じゃないか」と呆れただろう。
だが、孫兵ほどではないとはいえ、八左ヱ門も相手が例え蛇であろうが、風邪を引いたと聞けば本気で心配をする人間なのだ。
八左ヱ門は優しいからな…。だから一年生もああして八左ヱ門に懐くんだろう。
「兵助」
「うん?」
「もう少ししかないから、飲んでしまおう」
八左ヱ門が盥を傾け、底に溜まった果汁を竹で出来た器に入れた。一口自分が飲んで、まだたくさん残っているそれを兵助に差し出してくる。その指が葡萄色に染まっているのを見て、兵助は八左ヱ門の手を掴むと指に口付けた。
節を食めば甘酸っぱい葡萄の味がする。
「俺はこっちでいいよ」
ちゅ、と音を立て唇を離しそう言った兵助に、八左ヱ門が頬を赤くする。
「手なんか…舐めたって美味しくないだろ」
「いや、美味しかった」
兵助が笑いながら言えば、八左ヱ門は顔を真っ赤にして、やけくそのように器を傾け、ごくごくと果汁を呷った。
「盥を洗うんだろ。手伝おう」
兵助は言って盥を持ち上げると、同じようにもうひとつの盥を持ち上げた八左ヱ門の唇の端に残った果汁を指先で拭ってやった。
今口付けたらきっと、八左ヱ門の唇も山葡萄の甘酸っぱい味がするんだろうな…。
一瞬だけ八左ヱ門の指先と同じ葡萄色に染まった指を、兵助はそっと唇に含んだ。八左ヱ門が目尻を赤くしてぎこちなく視線を上に逸らしていく。兵助は笑って、同じように空を見上げた。綺麗に晴れ渡った秋空に、鳶が旋回しているのが見えた。
「秋だな」
ぽつりと呟いた兵助に、八左ヱ門が「おう」と応えて笑った。