抱き締めたい
その下にはひどく腫れた皮膚が隠されている。朝の授業で誤って、炎症を起こす毒薬を手と足に零してしまったのだ。幸いすぐに拭い取ったので、腫れは三日ほどで治まるということだが、薬を塗布して晒で巻いた手では何も出来ない。足も同じように晒で巻かれている。大事を取って一日は歩行不可と告げられ、食堂にも行けない八左ヱ門の為に三郎が部屋へ食事を運んだ。
その八左ヱ門は先程から慣れない左手で、つるつると滑る煮豆と格闘しているのだが、一向に食事が進んでいない。小鉢の豆腐もぐちゃぐちゃになってしまっていて、兵助が見れば泣くだろうと雷蔵は思った。
「…八左ヱ門」
それまで黙って見守っていた三郎が見かねたように八左ヱ門から箸を奪った。箸の先で器用に煮豆を掬うと八左ヱ門の口元へ運ぶ。
「いいよ、三郎。自分で食べれる」
八左ヱ門が顔を逸らすようにして、言った。
「さっきからそう言って、全く進んでないだろうが」
三郎が叱って、煮豆を八左ヱ門の口に押し付ける。ほら、と促され、渋々と口を開いた八左ヱ門の唇へ、三郎が素早く煮豆を三つほど放り込んだ。
一度そうしてしまえば、八左ヱ門は諦めたのか、まるで餌を待つ雛のようにぱかりと口を開ける。
三郎と雷蔵の他に誰も見ていないのもあって、素直に甘えることにしたのだろう。
三郎が「何を食べたい?」と訊いた。
「漬物」
「沢庵?胡瓜?」
「沢庵がいい」
三郎が沢庵を八左ヱ門の口に運ぶ。ぽりぽりと八左ヱ門がそれを咀嚼するのを待って、次は米、次は魚と甲斐甲斐しく世話をする。
楽しそうだなぁ、三郎ってば…。
雷蔵は文机に頬杖をつき、その様子をじっと見つめた。
普段八左ヱ門は世話を焼くことはあっても、甘えてくることは滅多にない。自分で出来ることは自分でやる、と言って、あまり人に頼ることが無い八左ヱ門が甘えてくるので、三郎は嬉しいのだろう。
八左ヱ門の唇に付いた米粒を取った三郎の指を、何気ない仕草で八左ヱ門がぺろりと舐めた。柔らかな舌が指に触れ、三郎が呆れたように笑う。それを見て八左ヱ門が不思議そうに首を傾げ、「魚を食わせてくれ」と言った。
雷蔵が思わず吹き出すと、三郎がちらりと視線を送ってくる。
全く、無自覚なんだからな。
三郎の目がそう言っている。
八左ヱ門は自分が与える影響を分かっていない。
二人は八左ヱ門のことが好きなのだと、いつも告げているのに。
それを聞くたび、照れたように分かっていると言いながら、全く無防備なのだ。
信用をされているということなんだろうけど。それが良いのか、悪いのか、複雑ではある。
「…三郎、代わるよ」
雷蔵はそう言って三郎の手から箸を受け取り、魚の身を解した。骨が無さそうな白身を持ち上げ、八左ヱ門の口に運ぶ。
ああ、これは…。
大きく開いた口に魚を運びながら、雷蔵は妙に納得する。
なるほど、三郎が楽しそうにしていたはずだ。
上目遣いに雷蔵を見つめる瞳。大きく開いた唇の中にちらちらと覗く、薄紅色をした肉厚な舌。食べ物を放り込んでやれば唇を閉じて租借する顔は妙に真面目で、可愛い。
雷蔵はねだられるままにせっせと箸を運んだ。
「ん…」
八左ヱ門が眉を寄せる。どうしたのかと訊くと、魚の骨があったと言って口を開いた。
「ごめん。どこかに刺さった?」
「大丈夫」
八左ヱ門が俯いて、左手の指を唇に含む。
伏せ目がちになったその瞼が薄く色付いて見える。まるで口付けを待っているようなその表情に、胸が跳ねた。八左ヱ門が魚の骨を唇から摘み出す。うっすらと開いた唇から、小さく出された舌に誘われ、雷蔵は八左ヱ門の顔を覗き込むようにして濡れた柔らかな唇に口付けた。
晒に巻かれた右手が戸惑うように上がり、雷蔵の肩に触れる。
「雷蔵」
呆れたような声を三郎が上げた。雷蔵は箸を膳に置いたその手で八左ヱ門の身体を抱き締めながら、「ごめん」と謝る。
「なんだか…」
無防備に甘えてくる八左ヱ門が可愛くて、我慢が出来なくなってしまった。
頬に口付けると、八左ヱ門が目を細める。自由の利かない右手でぎこちなく雷蔵の背を抱いた。
「雷蔵、食事が」
言いかけた唇を口付けで塞ぎ、言葉を奪う。
「後で食べさせてあげるから、ね」
今は抱き締めさせて、と囁いて八左ヱ門の身体をそっと抱いた。
「食事が終わるまで我慢しようと思っていたのにな」
三郎が仕方ないというようにそう言って、背中から八左ヱ門を抱き締めた。八左ヱ門の首筋に口付けた三郎が、ちらりと雷蔵を見て、笑う。その笑みに誘われるように、雷蔵は唇を開いた。
「八左ヱ門、好きだよ」
重なった二人の言葉に、八左ヱ門がいつものように照れた声で「分かってるよ」と応えた。じわと赤くなった頬に左右から唇を押し付ける。八左ヱ門がくすぐったそうにぎゅっと目を閉じて、「俺も好きだよ」と自棄になったようにそう言った。
八左ヱ門は僕達には嘘を吐いたことがない。
その言葉が本当だと分かるから、嬉しい。愛しくてたまらない。
雷蔵は笑って、三郎の体ごと八左ヱ門をぎゅうと抱き締めた。