ぼくだけのもの
「八左ヱ門」
雷蔵がにこりと笑って、名前を呼ぶ。八左ヱ門は開いた戸から身体を滑り込ませると、雷蔵の隣に座った。
「一人か」
訊くと、「そうだよ」と答えが返ってくる。
「さっきまできり丸がいたんだけど、今土井先生のところへ巻物を届けに行ってるんだ。八左ヱ門は」
「本を返しにきた」
八左ヱ門がそう言うと、雷蔵は読んでいた本を閉じて、机の下に下ろした。題名をちらりと見れば、怪談だった。
「こんな天気の良い日に怪談かよ」
「良いんだよ。夜読むと怖いだろ」
笑いながら雷蔵が差し出して来る手に本を渡す。雷蔵はそれをじっと見つめてから、貸出票の入った箱を指で探り出した。
「毒蜘蛛の本か…さすが生物委員長だね」
からかうように言われ、「仕方ないだろ」と言い返す。拗ねたようになった声に、雷蔵がふふと笑った。
「孫兵がまた新しいやつを飼い始めたんだ」
二日前の委員会で孫兵に「ほら可愛いでしょう」と見せられた蜘蛛は胴体が指の先程の小さな黒い蜘蛛だった。
この子に噛まれるとまず身体が痺れ、そして次に呼吸が弱まり、場合によっては死んでしまうんです。
孫兵はなんでもないことのようにそう説明していたが、いつかそれが逃げ出した時のために対処法を知っておかねばならないと、本を借りたのがその日の夕方。毒薬や生物の棚をうろうろしていると、図書委員長の中在家長次が事情を察して、数ある書架の中から詳しく載っている本を渡してくれた。
「中在家先輩にお礼が言いたかったんだがなぁ」
「中在家先輩は今日は当番ではないんだ。明日、伝えておくよ」
貸出票に返却日を記入して、雷蔵が本を持ち上げる。八左ヱ門は「俺が戻すよ」と本を受け取って立ち上がった。
図書室の一番奥にある棚まで行くと、本を取り出した辺りを覗き込む。
確かこの辺だったよな…。
しゃがんで、本の入る隙を探すが、どこもぎっしりと書物が詰まっていて仕舞えそうにない。
「雷蔵、すまん。戻す場所が無いんだが」
「うん?…ああ、そうだ。その棚は昨日整理をして、本の場所を少し変えたんだ」
声がして、すぐに雷蔵が本棚の影からひょこりと顔を覗かせた。八左ヱ門の横に同じようにしゃがみ込んで、下の段から何冊か本を抜き出すと、それを横の棚へと移す。
「ごめんごめん。ここに置いていいよ」
促された場所へと本を収め、立ち上がろうとした八左ヱ門の手を、雷蔵が掴んだ。突然のことに驚いて雷蔵の顔を見ると、にこりと笑ったままの顔が近付いてきて、唇が当たる。
「目を、閉じないの?」
囁き声に、「図書室だぞ」と文句を言う。雷蔵は「そうだねぇ」と少しだけ考えるような仕草をした後、八左ヱ門の身体をとんと押した。足が崩れ、転がった背中が壁に押し当てられる。
「らい、ぞ」
「部屋じゃ二人きりになれないからね」
たまには僕が八左ヱ門を独り占めしても良いだろう、と雷蔵は言って八左ヱ門にまた口付けた。
唇の隙から、雷蔵の舌が忍んでくる。温かなそれが八左ヱ門の舌を擽るように舐めた。
膝の間に入り込んでくる身体。着物の袷から差し込まれた手が、胸を撫でる。手の平に引っ掛かった突起を、ぎゅっと摘まれて、八左ヱ門は雷蔵の肩を押し返した。
「雷蔵、ちょ、待て…」
体勢を直そうと背中を浮かせた途端、雷蔵が八左ヱ門の足を引っ張った。ずるりと尻が滑り、横たわった身体の上に雷蔵が重なってくる。
雷蔵の柔らかな髪が落ちてきて八左ヱ門の頬を撫でたその時、図書室の戸ががらりと開く音が聞こえた。
「あれー、雷蔵先輩?いないんっすか?」
きり丸が戻ってきたのだろう。大きな声が響いてくる。
「どこ行っちゃったのかなぁ…」
近付いてくる足音に、八左ヱ門は雷蔵を見上げた。
こんなところを見られたら…。
どきりと心臓が跳ねる。
雷蔵はそんな八左ヱ門を宥めるように笑うと、棚の向こうに向かい「きり丸かい?」と声を上げた。
「ご苦労様。今日はもう良いよ。僕はこっちの棚を整理してから終わりにするから」
足音が止まる。
「分かりました。失礼します」
ぱたぱたと足音が遠ざかり、図書室の戸ががらりと音を立て閉じられた。
また、しんと静まり返った図書室に、はぁと溜息を吐く。早くなった鼓動を落ち着かせようとした深呼吸に、雷蔵が「大丈夫だよ」と囁く。
「もう誰も来ない。天気の良い日は皆外で遊んでいるから、図書室に来る人はあまりいないんだ」
「そういう問題じゃないだ、ろ…」
文句を言おうとした声は、口付けに奪われて途切れてしまう。
「…らいぞ、おまえな」
「八左ヱ門、好きだよ」
ぎゅうと抱き締められて、柔らかな声でそう告げられる。そう言うことが嬉しくてたまらないというような優しい声に、八左ヱ門は文句を言う為に開いた唇を声も無く少し震わせると、長い溜息を吐いた。
「…少しだけだぞ…」
呟いて、雷蔵の背中に手を回した。
「あと、三郎には内緒だからな」
三郎が知ればきっと、自分だけ仲間はずれにしてと怒るだろうから。
八左ヱ門の言葉を聞いて、雷蔵が小さく笑った。八左ヱ門は目を閉じて、愛しげに髪を撫でてくる雷蔵の背中をそっと抱き締めた。