夕方になりひょこりと長屋に戻ってきた八左ヱ門の鼻が赤く染まっていた。三郎が、どうしたんだその鼻と言って笑うと、八左ヱ門は気付いていなかったようで、きょとんとした顔をして何がと問い返してくる。雷蔵は鏡を取ると、八左ヱ門に渡してやった。鏡を覗き込んだ途端、八左ヱ門はああと声を上げて、鼻をごしごしと擦った。擦ると余計に赤くなるよ、と諭して八左ヱ門の手から鏡を取り上げる。とにかく部屋へ入りなよ、と雷蔵は八左ヱ門を手招いた。鳳仙花を摘んでいたから、と座り込んだ八左ヱ門が溜息を吐いた。虎若と三治郎が鳳仙花の花の絞り汁で遊んでいたその手で鼻を触られたかも知れない、と言う。一年生にしてやられたな、と三郎が笑った。あいつら、と八左ヱ門が鼻を擦って唸る。まるで末摘花の君だね、と雷蔵は言って八左ヱ門の手を掴み擦るのをやめさせると、その鼻をそっと摘んで離した。末摘花って不細工じゃないか、と八左ヱ門が唇を尖らせて文句を言う。三郎が、雷蔵例えが悪いぞと言ってにやりと笑う。雷蔵はごめんごめんと八左ヱ門に謝って、膨れた頬に口付けた。でも末摘花はその不器用さと純粋さを光源氏に愛され生涯を過ごした人物なのだから。決して不幸せでは無かったんだよ、と言った雷蔵に、さすが図書委員と二人が感心している。見れば、八左ヱ門の指先も薄紅に染まっていて、それを手に取って見ながら、私も八左ヱ門が好きだよと告げた。八左ヱ門が頬を、鼻先と同じ色に染め、うんと頷いた横で、三郎が抜け駆けだと文句を言った。雷蔵は笑って、八左ヱ門の薄紅の指先を三郎に手渡した。