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先輩と僕

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思えば僕は途中入学だったので、その時点でどの委員会に入るかという選択肢など無いに等しかったに違いない。
 ある日土井先生に呼ばれて行った部屋で初めて七松先輩に会った時…あの時はまさかこんなことになるとは思わなかったのだ。
 だって七松先輩は部屋の端にきちんと正座をして座っていて、土井先生に対する態度だってすごく礼儀正しかったから。よろしくな、と笑った顔も優しくて、怖い先輩だったらどうしようなんて心配していた僕の不安を一瞬で消し去ってくれたから。
 そう、七松先輩は決して怖い人ではなかった。そういう意味では、僕の感じた第一印象は決して間違っていなかったと言える。
 けれど…。
 僕は大きく溜息を吐いた。
 どうにかよじ登った松の木の枝は頼りなく、足が震える。それでも地面にいるよりはまだ良かった。
 どうしよう…帰り道が分からないや…。
 裏裏山に入ったのは数えるほどしかない。授業で使うのは殆ど裏山だったし、体育委員会で走りに来たのも片手で足りるほどしかない。
 いつもなら後ろを気にしてくれる滝夜叉丸先輩が授業の関係でいなくて、二年生の時友先輩は、三年生の次屋先輩が道を逸れていってしまわないか、そればっかりを気にしていた。
 一番最後を走っていた僕のことなんか、誰も見ていなかった。
 七松先輩はいつものように「いけいけどんどん」と良く分からない号令で我先にと走っていってしまったし…。気付けば皆の背中が遠く、小さくなって、やがて見えなくなってしまっていた。
 つまり…僕は今、迷子だ。
 どうしよう。このまま誰も僕を迎えに来てくれなかったら。
 時間が経つにつれ沈んでいく太陽を見つめる。太陽はもう、山の天辺に沈もうとしていた。
 学園に帰らなきゃ。そう思ったけれど、ここから移動する勇気が出なかった。
 走ってくる途中に大きな蛇がいたし…日が暮れれば狼だって出るかも知れない。きっと体の小さな僕なんて、あっと言う間に食べられちゃうんだ。
 狼の牙でばりばりと噛まれる想像をして、体が震える。
 きっと、ものすごく痛いだろうなぁ…。
 太陽の光がだんだんと細くなっていく。風も冷たくなってきたような気がした。
 七松先輩がいけないんだ…。本当は先輩っていうのは後輩の面倒を見なくちゃいけないはずなのに。いつも後ろなんか振り向きもしないで、自分勝手に走っていってしまう。委員会活動だって自分の好きなことしかしないし、出来ないって言うとすぐ怒るし…。
 全然、優しくなんかないや…。
 でも、一生懸命走ってると、大きな手で頭を撫でてくれた。
 偉いなぁ、金吾。偉い偉い。よく頑張ったぞ。さすが体育委員だ。
 大きな口を開けて、笑いながらそう言って、褒めてくれた。僕は、そうやって撫でられるのが恥ずかしくて嫌がる振りをしていたけれど、本当は大好きで…。
 思い出すと涙が出てきて、僕は少し泣いた。
 太陽の光は、あともう少しだけしか残っていなくて、空の高いところはもう暗闇に包まれようとしていた。
 震える足で松の木の枝に立ち上がる。滑って落ちてしまったら、死ぬかも知れない。そう思いながら太い幹に掴まって、足を踏ん張る。
「…七松先輩っ」
どこまでも緑の生い茂る山に向かって、叫んだ。
「七松小平太先輩っ」
二度、三度、繰り返し名前を呼んだ。山には僕の声が響くばかりで、誰も応えてくれない。
 怖くて、寂しくて、涙が溢れ出してくる。それを拭いながら、名前を呼び続けていると、がさがさと木を揺らす音が近付いてきた。
 もしかして狼かも知れない。
 そう思って咄嗟に黙る。しんと静まり返った山に、がさがさと木の枝を震わせる音だけが暫く響いていたかと思うと、やがて生い茂った低木を掻き分けるようにして七松先輩が飛び出してきた。
 そのすごい勢いに、喜ぶよりも先に僕は驚いてしまった。
「金吾、そこにいたのか。探したぞ」
僕を見上げて、にっこりと笑った七松先輩の身体には枯葉がいっぱい纏わりついていた。獣のように荒れた髪に張っている蜘蛛の巣が白く光っている。
 どこを走ってきたんだろう…。僕を探してくれてたんだろうか。
「ほら、降りてこい」
木の下で七松先輩がそう言って、手を広げる。僕は、足が震えていて、すぐに木を降りることが出来なかった。七松先輩はそれに気付いていたのだろう。
「飛べ。受け止めてやるから」
そう言って僕を促した。怖かったけれど僕は目を瞑って、枝を蹴った。一瞬後、長い腕にぎゅうと抱き締められて、僕はまた泣いた。
「学園に戻ってからお前がいないことに気付いたんだが…滝夜叉丸にこっぴどく怒られたぞ」
七松先輩は僕の頭を撫でてくれながら、そう言った。
「よく諦めないで私の名前を呼んだな。偉いぞ、金吾」
偉い偉い、と七松先輩はいつものように僕を褒めた。そうされると、余計に涙が溢れ出してきて、僕は七松先輩の肩に顔を押し付けて泣いた。
「ごめんなさい」
泣きながらそう言った僕に、七松先輩は声を上げて笑った。
 僕は初めて、体育委員会に入れて良かったと思った。こんな僕を偉い偉いと褒めてくれる七松先輩が大好きだと、そう思った。
作品名:先輩と僕 作家名:aocrot