影
本を閉じていけ庄左ヱ門、と。貸し出し票から目を離さずそう言ったきり丸に、閉じたら読んでいたところが分からなくなってしまう、と言い返した。きり丸は文机に肘をつき、庄左ヱ門を見上げると、本を開いたままにしてはいけない、と、淡々とした声で言った。
どうして、と訊けば、中在家先輩が昔言っていたんだ、とそう言って、きり丸は立ち上がり庄左ヱ門の読んでいた本を閉じた。薄く開いた戸の隙間から風が吹いてくる。何故だろう。暮春の風が、重苦しい湿気を含んだように、ひどく生暖かい。
ああ、気持ちが悪い。首筋に滲んできた汗を手の平でそっと押さえる。きり丸は変わらず涼しげな顔をして、風に持ち上げられようとした本の表紙を押さえて、どうもこれは庄左ヱ門に合いすぎたようだ、と目を細めた。
古い本には色んなものが憑いている。開いたままにすれば、手を離した途端にそれが出てきてしまうのさ。俺は一度だけ本から何か黒い影が出ていくのを見たことがある。小さな老人のようにも、狸のようにも見えた。影は図書室を出ていって、そのまま戻ってこなかった。
後をつけようとしたら中在家先輩が、見えても見えぬ振りをしろと言った。きり丸はそこまで話すと、本を取り上げ、これはしばらく貸し出し禁止にすると言った。一瞬、本がざわめくように見えて、きり丸の手元をじっと見つめていると、きり丸が笑った。
庄左ヱ門、見えても見えぬ振りをしろよ。呼ばれても決して返事をしてはいけない。そうでなければ憑かれてしまうぜ。きり丸は言って、手にしていた本で庄左ヱ門の背中を叩いた。重苦しかった風が、ふと涼やかに変わり、庄左ヱ門の首筋を撫でていった。
何か違う本を出してやるよ、ときり丸が背を向ける。暫くして不意に、中在家先輩はきっと憑かれていたんだろうと呟いた。お前はどうなんだと問い掛ければ、さあ、と笑って、棚の奥へ消えていった。きり丸が、自分の知っているものではないような気がして、庄左ヱ門はそれきり唇をつぐんだ。