痣
禍々しいその様子に、親は次第に男を遠ざけるようになった。男の家は呉服屋であったが、父親は男よりも弟を跡取りとして扱うようになり、母親さえも男から顔を逸らし、あの子は呪われていると嘆いた。
男は両親に冷遇されながらも、自分の体に浮かび上がる痣を憎いとは思わなかった。何故なのか。それはひどく自分の体に馴染み、そして時折、思い出したようにじくじくと痛むのだった。
自分はきっと火事で亡くなったのだろう。
十四を前にしてとうとう顔までも蝕み始めた痣を見て男は思った。
十六の春、この姿ではまともな仕事は出来まいと、高利貸しをしていた叔父が男を養子として引き受けた。
お前は良い面構えをしている。これからは私の跡取りとして生きろ。
叔父はそう言って、男の頭をぐいぐいと撫でた。
「…若頭、ご準備を」
目付役の山本が部屋に入ってくる。藤の椅子に座り、手入れの行き届いた庭を眺めていた男はその声に促されるようにして立ち上がり、腕を組み両の手を着物の袖に突っ込んだ。
この家に来たばかりの頃左頬に広がりつつあった痣は、今はもう顔の半分以上を蝕んでいて、また左目は成長するにつれ殆ど視力を失っていたので、男は顔の左側を覆い隠すように包帯を巻いている。
家の者はもう男のその姿に驚くことはない。思えば最初からこの山本だけは男の痣を見ても顔色ひとつ変えなかった。
恐怖も、驚きも、そして同情さえもその目には浮かぶことはなく、ただ男の教育係として淡々と男に接し続けた。
一度だけ、男は山本に、自分が怖くないのかと訊いたことがある。山本は少しだけ笑って、怖いことなどあるものですか、とひどく優しい声で言った。どうしてそんな声を出すのか、男には分からなかった。
門の前に付けられた車へ乗り込む。車が走り出すと、山本が帳簿を差し出してくる。
「赤坂の料亭か…」
受け取り、帳簿を捲りながら男は呟いた。
「相当金を溜め込んでいます。店の主人は狸のようで、こちらの再三の催促にも応じず、ここ最近は開き直り醜い有様で」
山本はそう言って、店の顧客情報を読み上げる。貴族に政治家と、一度は名前を聞いたことのある人物ばかりだ。それが店主の態度を横柄にしているのだろう。
「…あそこには立派な蔵があったなぁ、山本。蔵の中に何があるのか見てみたいものだ」
帳簿を山本の手に押し付け、返す。山本は「は」と短い返事をすると、帳簿を助手席に座る高坂に渡した。
料亭の前に車が着けられる。立派な門の前に男を待つ手下が並んでいた。男は山本をちらりと見、門を開けさせた。
長く続く石畳の周囲に初夏を感じさせる紫陽花と夏紅葉が植えられている。小さな池には錦の鯉が泳ぎ、傾いた太陽の赤みがかった日差しを反射した水面が眩い光を放ち揺れていた。
手下を引き連れ石畳を歩いて行く。
料亭の母家である数寄屋造りの建物から、店主が転がるように走り出てきた。
「こ、これは、若頭、今日はどんな御用で」
息せき切って男の前へ立つと、店主は両手を擦り合わせながら言った。
狸か…。山本の奴、上手く言ったものだ。
醜く太った店主の姿を見て、男は笑った。
「貸したものを返してもらいに来た。もちろん用意はしてあるだろうな?」
「も、もちろんでございます。ただ金は預けてありまして、明日まで待って頂ければ」
「そう言ってもう一年も待っている。私がわざわざ足を運んでいるのだよ。その意味が分からぬわけではあるまい」
男は袖に隠していた両手を広げ、店主に「時間切れだ」と笑った。それを合図に手下が母家へ向かっていく。
「あ、明日までには必ず…必ず返しますので、店だけは」
「組頭はそれでは間に合わぬと言っている。恨むなら自分を恨めよ、主人」
店主の肩をぽんと叩くと、店主は腰を抜かして座り込んだ。その脇を擦り抜け、男も母家へ向かう。
「妻と娘を捕えろ。金目のものは全て運び出せ」
高坂が指示を出す声を聞きながら、男は母家の入り口に立ち止まり、ふとその先にある白壁の蔵を見た。
「…蔵を開けさせましょう」
控えていた山本が進み出てきて言った。
座り込んだままでいた店主を引き摺り起こし、蔵の鍵を持ち出させる。蔵の鍵は銅製で、手の平ほどの大きさがあった。ずしりと重いそれを持ち、蔵に向かう。蔵の周りには草が生い茂り、その中に人一人がやっと通れるほどの道がある。
漆喰の壁が、夕日に赤く染まり始めていた。傍に立つ大きな楡の木の上で烏が鳴いている。
男は扉にぶらさがった錠前に鍵を差し込んで回した。ガチャリと鈍い音が響き錠前が外れる。閂を引き抜き、戸を開けた。重苦しい音と共に蔵の中へ差し込む夕日に、舞い上がった埃がちらついて見えた。
蔵の中には無造作に木箱が積まれている。光の届かない奥に、階段があった。階段の先には板戸が填められ、そこにもまた頑丈そうな錠前がぶらさがっていた。
「山本、主人を連れてこい」
「は」
山本に店主を連れてこさせ、階段の先の板戸を開くよう言った。店主はもう開き直っていたのか、全てを諦めていたのか、男に鍵を差し出し、そうして「後悔しますよ」とぽつりと呟いた。山本が「私が」と差し出してきた手を断り、細長い階段を上る。
鍵を開け、重い扉を持ち上げた。
空気が漏れ出してくる。
黴と埃の臭いに混じり、明らかにそこに何かが息づいている、そんな生臭さを微かに感じた。
男は扉を開け、階段を上りきった。天井裏は大きな部屋になっていた。
調度品はどれも高価なものだろう。箪笥がふたつと、本がびっしりと詰まった本棚、文机、鏡台。鏡台は使われていないのか、閉ざされた鏡の前に古びた人形が三体置かれていた。
背後で何かが蠢く気配を感じ、振り向く。薄暗い部屋の奥に布団が敷かれ、その上に白い生き物がいた。
片方しか無い目をじっと凝らして見る。
人か…。
しかしそれは人間というにはひどく怪しげな姿をしていた。
白を通り越して青白く透けるような肌をしている。うねるように床に広がる長い黒髪。
男の視線の先で、それがゆっくりと顔を上げた。さらさらと落ちる髪の隙間から、血のように赤い唇が覗いた。異様に尖った鼻と、何の感情も孕まない瞳。それが、男の顔を認めると、つと細まった。
「…お前も咎を抱いて生まれたか」
赤い唇がそう、言葉を紡いだ。その声を聴いた瞬間、男の痣がざわめくように痛み出した。
ああ、この痛みは知っている…長い間私を蝕み続けた痛みだ…。
「…照星」
思わず唇から転がり出た言葉が、何であるか理解してなかった。ただそれが心地よく舌に馴染んだ言葉だということは分かった。
「照星」
もう一度、繰り返す。
赤い唇が微かに歪んだ。
「そう呼ばれたのは久しぶりだ」
言いながら体を起こしたそれには、右腕が無かった。
「これが私の咎だ」
照星が静かな声で、そう言った。