涼し音
神社の境内は参拝客が疎らにいるだけで、閑散としたものだった。三日後に奉納祭を控えているため、参道の横に真新しい木で作られた舞台がある。その舞台を背に、近藤は奉納祭警備の配置図を広げた。
天気が良い所為か、子供連れが目立つ。お宮参りの家族が一組、木陰に留まり近藤と目が合うと静かに黙礼をした。
全く嫌われている。
近藤は同じように黙礼を返し、思った。
市民を守るのが仕事だというのに、その市民が真選組の制服を見て眉を潜める場面に遭遇することも少なくは無い。あからさまに「幕府の犬が」と罵られたこともある。
仕事だ、仕方ない。そうは思っても近藤はやりきれない気分になり、参拝客に背中を向けた。
「近藤さん」
どこから出てきたのか、綺麗に剪定された松の木の下から土方が近藤を手招きしていた。一緒にいた山崎はどこに行ったのか、姿が見えない。沖田さえ、傍にいない。近藤は配置図を折りたたみ、大股に土方の元へ向かった。
「トシ、裏手を確認してたんじゃなかったのか」
「ああ、終った。何回も下見してんだ。抜かりはねぇよ」
配置図通りで問題ねぇと言いながら土方は近藤の手から図面を取り上げ、自分の上着のポケットへとしまった。
頭の天辺がじりじりとするような暑さなのに、土方は汗ひとつ浮かべていない。隊服にも乱れが見えず、スカーフも隙間なく巻かれている。そこだけ涼しい風が吹いているように、前髪がさらりと踊った。
「暑いのか」
近藤が汗を拭うのを見て、土方が笑う。
「ああ、暑い」
「こっちは日が当たるからな。裏手は木陰で涼しかったぜ」
そう言ってから、不意に何かに気付いたように「ああ、そうだ」と呟いて、土方は近藤の袖を引いた。
「こっちに良いものがある」
土方に引かれるまま細い小道に敷かれた飛び石の上を歩いていくと、一本の百日紅の木の下に石造りの水鉢が置かれていた。筧からポタリポタリと水滴が落ちている。周囲には一初の菖蒲が咲き確かに涼しげな風景ではあるが、暑さに変わりはない。
また滲んできた汗を拭う。土方は近藤の袖を引いたまま、その水鉢の傍にしゃがんだ。何をしているのかと訝り、近藤もその隣にしゃがみ込む。
「トシ」
名前を呼ぶと、「静かにしろ」と叱られる。意味が分からず言われるまま口を噤んだ近藤の耳に微かな音が響いてきた。琴に似たその音は地面の下から反響し聞こえてくる。
「水琴窟だぜ」
「ああ…これが」
話には聞いたことがあったが、実際に耳にするのは初めてのことだった。
澄んだ音はぽつりぽつりと絶えず響いてくる。土方が耳を澄ませるように顔を傾け薄い瞼を落とした。
この男は目を閉じるとひどく優しい顔になる。元々気の優しい性格なのだ。どれだけそれに気付いている人間がいるだろう。
近藤はひとつ大きく息を吐き、暑さで漫ろなっていた気持ちを落ちつかせた。土方を真似て目を閉じてみれば、水琴窟の音色はより大きく澄んで聞こえてくる。
「近藤さん」
「うん?」
「みんなから好かれようなんざ土台無理な話だよ。昔から俺達は爪弾かれてきたじゃねぇか。今更何だ。情けねぇ顔すんな」
「トシ…」
見ていたのか、と訊く。土方は「アンタの顔見りゃ全部分かるさ」と笑った。
「近藤さんは優しいからな」
そう言った土方の顔が近付いてくる。濡れたような黒い瞳に視界を捕われたまま、一瞬後に冷たい唇が触れてきた。近藤の唇を掠めるようにされた口付けはすぐに終り、土方がうっそりと笑った。
「夜にまた、二人で来ようか」
今日は晴れて月も綺麗だろう。酒を持って出かけよう、と土方が誘う。
何時の間にか汗は引き、木々の合間を縫って落ちてくる太陽の光さえ気持ちよく感じられた。
土方の言葉は不思議だ。曇り空が晴れていくように、近藤の気持ちを鮮明にしてくれる。素直に心を預けることが出来る。
どうだ、と訊くように土方が首を傾げた仕草に、近藤は唇を綻ばせ頷いた。
「それは良い。良い酒を用意しよう」
きっと、夜の方が綺麗に響く。水琴窟の音も、土方の声も。