想い人
吹いてくる風は秋めいていて涼しいが、とにかく日差しが強く暑い。日当たりの良い部屋はすぐに温度が上がり、篭もっていると上せてしまいそうで、土方は首筋に浮かんだ汗を手の平で押さえながら部屋を出た。
殆どの隊士は朝から隊務についているため、屯所の中はひどく静かだ。土方が回廊を行く足音に、酔芙蓉の花をついばんでいた鳥がぱたりと羽音を立て飛び立っていった。
一日かけて部屋で溜まった書類を片付ける気でいたが、この暑さではどうもやる気が起こらない。
仕方ねぇ…日が落ちてからやるか。
とはいえ自分は一日通常の隊務から離れているため、やることもない。土方は屯所内を宛てもなく歩き回った挙句、結局道場に向かった。
最近は忙しくゆっくりと剣をふるう暇も無かった。道場に入ると汗や埃の入り混じったような匂いがし、土方はそれを懐かしいような思いで嗅ぐと、ひんやりとした床に胡座をかいて座った。
思いつきで行動した為、刀を部屋に置いてきてしまったことに苦笑する。仕方ないので腕を組み、目を閉じた。不思議と眠気は襲ってこない。ただ、しんと静まり返った空間に神経が研ぎ澄まされ、暑さで散漫になった集中力が戻ってくるのが分かった。
どこかで虫の鳴く声がする。さすがに蝉の声は途絶え、最近では鈴虫が鳴くようになった。一昨日の夜には近藤がどこからか探し出してきた竹細工の虫篭に、掴まえた鈴虫を放り込んでいた。窓際に置いてしばらく鳴き声を楽しんだ後、近藤は竹籠から庭へと鈴虫を逃がしてやった。
そういえばあの人は夏には川辺から蛍を掴まえてきたっけか。その時も一時間ほどその仄かな明りを楽しんだ後、わざわざ掴まえた川辺まで逃がしに行っていたのを思い出した。
顔に似合わず案外洒落たことをするんだ、あの人は…。
近藤の角張った顔を思い出し、思わず笑う。無心になるはずが、近藤のことを考えてしまうともう心が落ち着かず、土方はふうとひとつ息を吐き出した。
時計を見ればまだ一時間も経っていない。
近藤は松平に呼ばれ城に行っている。夕方までに戻ってくるだろうか。飲み屋を引き摺りまわされて、もしかしたら今日は戻ってこないかも知れないな…。
ごろりと寝転び、半ば眠気に誘われながらそんなことを考えている間に、本当に寝てしまったらしい。
ゆらりゆらりと肩を揺さ振る手の感触に、不意に意識が覚醒した。一瞬のまどろみの後、はっと目が覚める。
いつの間に寝てしまったのか…自分でも気付かなかった。急に肌寒さに襲われぶるりと身体を震わすと、土方は盛大にくしゃみを二度繰り返した。
身体を起こしてみれば、外は既に暗く道場には明りが灯されている。土方が寝ていたので遠慮しているのか剣を振るう者もなかった。
こんなところで寝るからだぞ、という低い笑い声と共に肩に羽織りが掛けられた。振り返れば近藤が膝をつき座っている。和蝋燭の力強く太い焔が近藤の動きに吊られるように揺れ、道場の天井をぼんやりと浮かび上がらせた。見れば足元にも誰かの羽織りが掛けられている。土方はそれを引き寄せ、「斎藤か…」と呟いた。
「すまねぇ。寝ちまった」
照れ臭く顎を撫で、謝った。
「いいさ。疲れてたんだろ」
大きな手で土方の頭をくしゃりとやり、近藤が頷く。
「斎藤が最初に気付いてな。後は順番で見にきてたみたいだぜ」
「順番で?」
「あんまりお前が無防備に寝てるから珍しかったんだろ」
何が嬉しいのか、近藤は満面の笑みで答えるが、土方にしてみれば気分が悪い。
こんなところで寝ていた自分も悪いが…人に寝顔を見られるのは好きではなかった。この後夕食の席で沖田になんと言われるか、想像するだけで嫌になる。
「そういえば近藤さん、いつ帰ってきたんだ」
「一時間くらい前だ。トシが寝てるっていうから見にきたんだ」
「…あんたもかよ」
呆れた声が出たが、近藤は気にした風でもなく「怒るなよ、トシ」と穏やかに言う。
「俺は昔を思い出して嬉しかったぜ」
急にそんなことを言われ、近藤の顔をじっと見つめてしまう。近藤は土方の視線に少し照れたように頭を掻いた。
「昔はお前、道場でもどこでも良くごろりと寝転んで人の目も気にせず寝てたじゃねぇか」
「それは、…」
真選組がまだ生まれていない、自分も副長ではなくただ時間を無駄に持て余していた時の話じゃねぇか。
続けようとした言葉は近藤の視線に遮られ、飲み込まれる。
「俺の部屋でも良く寝てただろう。しかも真ん中で大の字になって」
出かけていった近藤の帰りを待って、勝手に部屋に上がりこみごろごろとしていた土方を思い出しているのか、近藤はおかしげに目を細めた。頬が赤らむような気がして顔を俯けると、前髪が持ち上げられ露になった額に近藤の唇が押しつけられた。
「ついついそれを思い出してな。あんまり気持ち良さそうに寝てるから起こすのも可哀想だと思って」
「…ずっと見てたのかよ」
「怒るなって」
そうやって拗ねると本当に昔に戻ったみたいだ、と笑われた。こんなときばかり年上ぶりやがって、と思うが、土方は黙って顔を傾け近藤の口付けを受けた。
「可愛かったぞ、トシ」
微かに濡れた音を立て離れた唇が早速そんなことを言ったので、顔が燃えるかと思うほど熱くなった。
「馬鹿か」
鬼と呼ばれている自分をここまでいたたまれない気分にさせるのはきっと、近藤の他にはいないだろうと思いながら、土方はまだ何か言いたげな近藤の唇を口付けで塞いだ。
ただ近藤と二人きりでこうしていると本当にただの幼馴染だったころの二人に戻ったようで、土方は不思議と胸を締め付けられるような感覚に深く息をつき、近藤肩に腕を回し抱きついた。
「今日のトシはなんか子供みたいだな」
近藤がそう言って笑ったが、土方は「悪いか」と開き直った。
今この一瞬だけは、近藤は自分一人のものだ。腕の中の温もりが、耳近く聞こえる呼吸の音が、そう思わせてくれる。
「もうしばらくこのままでいさせてくれよ、近藤さん…」
土方は甘えるようにそう言って、近藤の肩口に頬を押しつけた。