春がきたと告げる人
今も広い座卓の上、自分の前に椀を集め巣を作り始めている。全て手の届くところに置き、他のものと隔てると安心したのか箸を取った。
じっと見つめていると、土方がそれに気付き顔をあげじろりとにらんできた。
「総悟、お前そんなとこでボケッとしてねぇで酒でも注いで回ってこい」
そんなことを言って体良く人を追い払おうとしている。自分がいなくなれば、土方は今しがた作り上げたばかりの巣の中で飯を食うのだろう。
宴会の場ではいつもそうだ。近藤が五分としてひとつの場所にじっとしていられないのに対し、土方は巣を作るとそこから動くことを厭う。そしてその巣に他の者が踏み込むことを厭う。
「俺がお酌しなきゃいけない相手なんざここじゃ近藤さんか土方さんだけですぜ」
答えると、土方はふんと鼻を鳴らし「そりゃぁ偉くなったもんだ」と言った。
沖田は側にあった一升瓶に手を伸ばし、土方の盃に傾けようとする。だが土方は盃をさっと避けると、
「よせよ。俺はまだ死にたくねぇからな」
と言って手酌で酒を注ぎ舐めるように飲んだ。土方らしい言葉を笑う。
「俺ぁ毒なんてせこい手は使いませんぜ。やる時は剣でバサリと真っ二つにやってやらぁ」
その方が土方さんも良いでしょう、と訊くと土方は唇の端を上げ笑うが何も言わず、またちびちびと酒を舐めた。
こういう時の土方はどうも何を考えているか分からない。自分は元から、近藤にさえその本心を見せたことは無いのではないかとそう思わせる。
不意に吹いた風が庭先から沈丁花の香りを運んでくると、土方は顔を傾け「もう春だな」と呟いた。
こぶしが咲き沈丁花が香り春の訪れを告げる。
「春は沈丁花、夏は梔子、秋は金木犀…」
花々は季節を告げる香りを運んでくる。
じゃあ冬はなんですか、と訊くと「知らねぇよ。俺は冬は好きじゃない」と上の空で答えた。
近藤は隊士達に酒を呑まされ良い加減に酔っているようだ。
「ああ、いけねぇ。近藤さん、弱いくせに飲みたがるから」
困ったお人だぁ、と一升瓶を持ったまま立ち上がり、隊士達に囃し立てられ羽目を外している近藤の側へ行こうとするのを、腕を掴まれ止められる。
「好きにさせといてやれ、総悟。こんな時しか馬鹿騒ぎできねぇからな」
そう言って土方は近藤を見る瞳を細めた。
この人は今、自分がどんな表情で近藤を見ているか気付いているのだろうか。隊士達に鬼と称される男が、近藤を見る時はひどく優しい顔になる。それはごく微かな変化だが、その瞳が土方の想いを赤裸々に語っていた。
やがて土方は小さく溜息をつき、焼き魚を箸の先で突つき始めた。骨から剥がれた身がぼろぼろと崩れて皿に落ちるが、土方はそれを食べず、胸元から出した煙草を咥え火を点けた。
沈丁花の香りが苦い煙に巻かれ消されていく。
細く舞い上がる紫煙を吐き出しながら、土方は近藤を見つめている。
巣が、無防備になっている。沖田は箸を伸ばし、土方が落した魚の身を摘んだ。
「総悟、それぁ俺の魚だ」
「どうせ食べないんだからケチケチしなさんな」
巣を侵されてムッとしたのか、土方は舌打ちをしてそっぽを向いた。
そしてまた男は別の場所に巣を作る。
沖田に背を向け、灰皿と盃をを自分の足の間に挟み込んだ土方を見て笑う。まだ花開かぬ蕾のうちから零れ落ちる沈丁花の芳香のように、土方の想いは物言わぬ背中からも溢れている。
自分が作り上げた真選組という鳥籠の中で、せっせと巣を作り外に出ようとしない、本当は繊細で臆病な男。
一生を捧げる覚悟をしたほど好きな相手に想いを告げることもせず、ただ側にいる。それだけで満足していると自分に言い聞かせている。
「土方さん、アンタ馬鹿だねぇ」
土方の背中に呟いた。土方は何をいきなりと剣呑な目つきで振り返ったが、沖田はただ笑った。
煙草の煙が途切れ、沈丁花が香る。土方は無粋だと思ったのか煙草を消し、窓を大きく開けた。
「もう春ですねぇ」
「それはさっきもう言った」
「じゃあ桜が咲いたらまた言いますよ」
土方はふんと笑い、「もう良いからお前もどっか行け」と手を振った。
そうしてまた男は自分の前に新しい椀を集め、狭くて居心地の良い巣を作り始めるのだ。