夏隣 五月五日
空は高く晴れている。五月晴れとは良くいったもので、雲ひとつ無い青天に、雲雀が飛んでいた。
畳の上に寝転ぶと、手の先にかさりと紙が触れる。土方は無造作にそれを掴んで、顔の前に持ち上げた。紙に書かれた近藤の、お世辞にも綺麗とは言えない字を見る。
五月五日の夕暮れに川にかかる橋の上へ来て欲しい、と書いてある。
今朝も人の顔を見ては「絶対に夕暮れ前に来たら駄目だからな」と念を押して出掛けて行った。
「ったく…仕方ねぇなぁ」
ぽつりと呟いて、土方はその紙をまた畳の上へ投げ出した。
夕暮れにはあと半刻ほどある。一眠りするかと目を閉じるが、どうも眠れず、また身体を起こした。
半刻か…煙草屋に寄って、ぶらぶら歩いていけば良い。
着物の帯を締め直し、部屋を出る。回廊を玄関へ向かっていると、途中の部屋から隊士が慌てたように出てきた。
「副長、お出かけですか」
そう問うので、「そうだ」と頷く。
「でもまだ時間が…」
まだ青い空を見上げ、隊士が困ったように言った。
どうせ近藤に土方が早く屯所を出ないよう見張っていろとでも言われているのだろう。
全く…私事に部下を使いやがって。
土方はついてこようとする隊士を手で制し、「時間を潰しながら行くから平気だ」と言うと背中を向けた。
屯所を出て、いつもは車で移動する道を腰に大刀をぶら下げただけで一人歩いていく。白昼から襲ってくる奴がいないとも限らないので、左手は一応刀へ置いておく。
こんな日ばっかりは放っておいて欲しいがな…。
そんな願いも空しく商店街を抜け、川原へ続く人気の無い道に出た時に、背後に気配を感じ立ち止まった。
いち、に、さん…三人か。
かちり、と刀が鳴る。土方が右手を浮かせたのを合図にして背後から一斉に足音が走り出た。
「土方ぁ!覚悟っ」
振り向き様襲い掛かってきた刀を受け流し、刀の柄で相手の首を突く。その反動で二人目の刀を弾きあばらを蹴り上げた。ごき、と骨が折れる感触がして、男が血を吐いて倒れる。
「今日は機嫌が良いから、殺さないでおいてやるよ」
土方はそう言って笑うと、刀を構え、三人目に対峙した。
太陽がだいぶ落ちてきている。
早くしねぇと、近藤さんが煩い。
ざ、と足を踏み出し相手の懐へ入る。寝かせた刃を脇腹に押し込んで、刀が突き刺さったままの男の身体を蹴って飛ばした。刀が抜け、その切っ先から跳ねた血が、土方の頬を汚した。
「ったく…」
着物の肩口で頬を拭う。西日が差しむんとした空気の中に、生臭い血の匂いが漂った。倒れた男達から帯を奪い一人ずつ木に縛り付けていると、通りかかった豆腐屋の笛に土方は顔を上げた。
「…おい、すまねぇが真選組に連絡をしておいてくれ」
そう言い置いて、返事を聞かず歩き出す。
早く行かないと。
空を見上げれば頭上に夜の帳が下りてきている。自然と足が速まり、最後には半分駆け足になって近藤の待つ橋に向かった。
川の上流にかかる橋に辿り着くとその真ん中に近藤が立っていた。何もかもを赤く染め上げる眩い夕焼けの所為で、顔が良く見えない。
「近藤さん」
声を掛けると、「遅かったじゃねぇか」と手招きをされた。
「悪い。もっと早く来るつもりだったんだが」
そう謝った土方の肩を、近藤の大きな手ががしりと掴んだ。そのままぐいと力強く川の下流を振り向かされる。
「な、んだ…」
文句を言おうとした声が途切れた。
大きな夕日に目が眩む。目を眇めて見れば、無数の鯉幟が照柿色の空を泳いでいた。
川の端から端へ渡した紐に繋がれているのだろう。ハタハタと柔らかな音を立て尾を翻している。
まるで、今にも夕日に向かい川を昇っていきそうな、そんな光景だった。
「どうだ!」
近藤が誇らしげに胸を張る。
「折角誕生日なのに、トシが何もいらないと言うから、これでも悩んだんだぞ」
近所の店を回って買い占めてきたのだと、近藤は言った。
「馬鹿か…逆に高くついてんじゃねぇか」
照れ隠しもあって、つい呆れた声が出た。
「嬉しくなかったか」
近藤が落ち込んだ声を出したので、溜息を吐く。橋の欄干にもたれて鯉幟を見つめ「違う」と言った。
「アンタが俺の為にしてくれることが、嬉しくないわけがない」
川を風が渡ってくる。一際大きな真鯉がうねるように大きくはためいた。
何も言わなくても、近藤は土方が見たいと思っている景色をいつも見せてくれる。
今も、昔も。そして、これから先もきっと。
「綺麗だな…」
ぽつりと呟いた土方に、近藤が嬉しそうに笑った。
「…誕生日おめでとう、トシ」