夏は夕暮れ
夕闇に浮かび上がる遊郭の明りは、花魁の唇を思わせるように赤い。同じ赤色に塗られた柱の向こうから、女が土方を呼びとめようと手を伸ばしたがそれを擦り抜け、一際豪華な揚屋の暖簾をくぐった。
「これは、土方様。こちらでございます」
無表情な男衆が出てきて、土方を二階の部屋へと誘った。
酔っ払って歩けないから迎えに来てくれ、と近藤から連絡があったのはつい一時間前のことだった。原田が車を出そうとしていたのを引き止め、土方自ら迎えに来たのは、ただ近藤の抱いた女の顔を見てみたかったからかも知れない。
「入るぜ」
襖の向こうに声を掛け、開ける。近藤は女の膝枕に頬をつけ、寝ていた。
松平も一緒にいたはずだが、姿が見えない。きっと他の部屋へ行っているのだろう。
近藤の顔に向け扇子で風を送っていた女が土方を振り返り、うっそりと笑った。作り物めいた綺麗な顔の中で、化け物のように歪む赤い唇。
「…まぁ、土方様」
「お前か、玉菊」
松平に呼ばれて行った宴会で何度か顔を合わせ、一度は酔いに任せ抱いたことのある女だった。
「近藤様は、確か、原田様へご連絡をなさっていたはず」
「うるせぇ。手が空いてたから俺が来ただけだ」
「おお、怖い怖い」
玉菊は笑いながら、寝ている近藤の頭を抱いた。まるで土方には渡さないというようにぐるりと近藤の首に絡みついた白い手に、土方は思わず「おい」と声を上げていた。
「悪いが連れて帰らせてもらうぜ」
部屋の中央までずかずかと進み、女の腕を取る。赤い着物の袖が捲れ、白く細い腕が露わになった。力が入ったのか、「あれ」と玉菊が悲鳴を上げる。ちっと舌打ちをして玉菊の腕を突き放すようにして放ると、土方はしゃがみこんで近藤の頬を軽く叩いた。
「近藤さん、迎えに来たぞ」
だいぶ酒を呑んだのか、目の下が赤く染まっている。手の平に触れた頬も熱く、土方は溜息をついて手の平で近藤の頬を撫でた。そのひんやりとした感触に、近藤がうっすらと目を開けた。
「…トシ」
まるで確認するような響きで名前を呼ばれ、「おう」と応える。
「頼むから、こんなとこで正体不明になるほど呑まないでくれよ。バッサリ切られて死んじまうぜ」
「すまねぇ…」
話すと頭が痛くなるのか、近藤が眉間に皺を寄せる。仕方ねぇな、と土方は立てていた膝を落としあぐらをかいて座り込んだ。慣れたもので、土方の膝の前に玉菊が灰皿を寄せてくる。土方が胸元を探り取り出した煙草に火を点けると、玉菊は近藤の頭を自分の膝の上から持ち上げ、引き寄せた枕の上へそっと下ろした。
「半刻したら白湯をお持ち致しましょう。それまではどうぞ、ごゆるりと」
ざらりと衣擦れの音を立て、玉菊が部屋を出ていく。ぱたりと閉まった襖を見て、土方は近藤の額に手を伸ばした。肌にうっすらと浮かんだ汗の玉を指先で拭い、湿った前髪をかきあげてやる。近藤が気持ち良さそうに目を閉じるので、子供かよと思いつつ、そのまま頭を撫でた。
「トシの手は冷たくて気持ち良いな」
「そうか?アンタが熱いんだろう」
「玉菊の手も冷たかった」
「そうか」
頷いて、宙に向かい煙を吐き出す。近藤が薄目を開いて土方を見上げた。
「…妬かないのか?」
少し拗ねたような口調で訊かれ、「妬いて欲しいのか?」と訊き返した。近藤は土方の返事が気に食わなかったようで「訊いているのは俺だ」と言った。酔っ払っているからか、その子供のような態度に土方は唇の端を歪めて笑った。
「妬いていないと言ったら嘘になるな」
玉菊の手が近藤に触れているのを見た時、沸き上がった感情は確かに嫉妬だった。
土方の答えを聞いて、近藤はどこか複雑そうな顔をした。それからぼそりと、「お前が抱いた女だというから、見てみたかったんだ」と呟いた。
どんな女を抱いたのかと気になったのだと、近藤は言い難そうに続けた。
近藤が抱いた女の顔を見てやろうと迎えに来た自分と、同じことを考えて何人もいただろう女の中から玉菊を選んだ近藤と。
一緒にいると考え方も似てくるもんかね…。
夜が近付き、涼しい風が吹いてきた。窓から見える柳の木がゆらゆらと揺れ、涼しさを誘う。どこからか、子供が歌う七夕の歌が聞こえてくると、近藤が「ああ、そうか。今日は七夕か」と呟いた。
「…で、どうだった」
意地の悪い質問をした土方に、近藤は「抱いてないぞ」と情けない顔をした。
「頭がふらふらして、それどころじゃなかった」
「だからアンタは女と上手くいかねぇんだよ、近藤さん」
土方は、今度は声を立てて笑うと、灰皿に煙草を押しつけたその指で近藤の唇を開かせ、傾けた顔を近付けた。
「幸い今日は晴天だ。天の川に恋愛成就のお祈りでもするんだな…」