覚悟
近藤が歩いて行こうというので、車は先に帰らせていた。何を話すでもなく、たまにぽつりぽつりと世間話をしながら帰る道は、まだ何者でもなかった昔の二人を思い出させた。
どこかの軒先から小豆を炊く甘い匂いがしてくる。甘いものに目がない近藤が鼻をひくつかせ「ぼたもちだ」と言った。その匂いに釣られ行ってしまいそうな近藤を笑い「なんで分かる」と訊いた。
「彼岸だからな」
穏やかに流れていく川面を見下ろし近藤が答える。小さくうねり、涼やかな水音を立てながら浅瀬を滑っていくその澄んだ水の流れを、土方もまた近藤の隣に立ち見下ろした。
「ああ、そうか」
忙しくてすっかり忘れていた。
笹舟がひとつ流れてきた。野の花を乗せ、くるりくるりと流れに翻弄されながら目前を横切ったそれに土方は視線を寄せた。上流で誰かが流しているらしい。間を置いて、ぽつりぽつりと流れてくる。
「トシ、桃の花だ」
近藤が呟き指を差した先に、浅瀬に転がった石に引っ掛かり動きを止めた笹舟があった。舟の腹には丸く膨らんだ桃の花が乗っている。近藤はしばらくそれを眺めていたが、やがて河原に飛び降りると手を伸ばしその舟の尻を指で押してやった。舟はまた流れに乗って走りだし、見えなくなる。
近藤はそのまま水際にしゃがみこみ、流れの中に指先を浸した。子供が水遊びをするように、平たい石を掴みそれを放り投げる。石は水面で軽く一回跳ね、川に沈んだ。
子供の頃だったら、土方もその隣に立ち石を投げただろう。近藤よりも上手く飛ばす自信があった。近藤ももしかしたらそれを望んでいたのかも知れない。だが土方はそうはせず、「近藤さん、酒を買って行こう」と近藤の頭上に声を掛けた。近藤は重い身体を起こすようにして立ち上がり「ああ、いいな」と笑う。軽く振り払った指先から水滴が空中に飛び散りきらきらと光った。
また笹舟が流れてくる。どこかで中身を落してきたのか、空っぽの舟が近藤の足の少し先で砂利に乗り上げ、止まった。
それをじっと見つめ、黙ってしまった近藤が思いを馳せているものが何か、手に取るように分かり掛ける言葉が無くなる。だから土方も近藤の広い背中を見詰め同じ場所に思いを馳せた。
今はもう、会うことのない仲間の顔が、太陽に反射する川面に浮かんでは消えていく。近藤もまた、黄金に輝く川面に同じものを見ているのだろうと思う。
時代の転換期、いくつもの場面で大事な仲間を失ってきた。その事実がどれだけこの心優しい男を傷付けているのかと思うと、ひどく切なくなった。
「…近藤さん」
名前を呼び、土方はしゃがみこんだ。ゆっくりと振り返った近藤に手を伸ばす。自分の平らな手に近藤の大きな手の平が重なる。確かに体温を伝えてくるその手をぎゅっと握る。土手の道に近藤が上がってくるのを待ち、離そうとした指を逆に強く掴まれた。
「生き延びることが悪いことだとは思わねぇ…俺は」
急に何を言い出すのかこの男は、と土方は近藤の角ばった顔を見つめる。
「それは…当たり前だ、近藤さん」
何か答えた方が良いのかと思い口を開くと、呆然とした声が出た。近藤は土方のその声を聞き、少し笑った。
「良かった。それが聞きたかった」
もし、と言葉を続ける近藤が、また何かおかしなことを言い出すのではないかと眉を寄せる。風が吹き流された前髪を、近藤の太い指が払ってくれる。開けた視界の中間近に現れた近藤の顔は、いつになく真剣で怖くなる。
「俺が死んでもお前は生きろよ、トシ」
言われ、咄嗟に土方は近藤の手を払っていた。
「…何言ってんだよ。殺されても死なねぇような奴が」
一瞬でもその言葉に動揺してしまった自分がいた。それが悔しくて土方は吐き捨てるように言うと近藤に背中を向けた。
「トシ、怒ったのか」
先程とは打って変わり、からかうような声が追いかけてくる。
「俺はっ…」
土方はそれに苛立ち、勢い良く近藤を振り返った。勢いに任せ近藤の胸元を掴んで引く。
「アンタが生きろというなら生きる。いつまでも生き延びてやる」
それで満足か、と訊いた。近藤は腕組をし、馬鹿のようににこにこと笑いながら「ああ、満足だ」とひとつ頷いた。
土方はちっと舌打ちをし近藤を放すと、胸元を乱暴に探って取り出した煙草を咥えた。川を渡る風は案外強く、なかなか火がつかない。苛立ちが増し、結局先を焦がしただけの煙草を地面に投げ捨てた。
近藤がそれを拾ったが、今は何も話したくなくて俯き足を早めた。
川に架かる橋に乗ろうとしたところで「トシ」と名前を呼ばれる。顔を上げると、近藤は傾いた太陽を見ていた。
大きく浮かび上がる金色の光り。時代は巡っても、空だけは変わらない。青空を隠し浮かんでくる夕闇は、いつ見ても美しい。
立ち止まった二人の横を通りすぎていく子供が、ぽつりぽつりと歌う夕焼け小焼けが辺りに響いた。
「俺も生きるよ」
近藤が呟いた。生きて生きて、よぼよぼでしわしわの爺さんになっても生き続けるよ、と真面目な顔をして言う。
それが自分に出来る唯一のことだから、必死になって生きる。近藤は言って、自分の言葉に照れたように笑う。 そんな表情を見てしまえば、いつまでも機嫌を損ねているのが馬鹿馬鹿しくなり、土方は歪めていた唇を綻ばせ思わず笑った。
近藤がそう決めたなら自分はどこまでもついていくだけだ。それが例え間違った道であったとしても…とうに覚悟は出来ている。
この男に人生を預ける。共に生き、倒れる時まで傍にいよう。
必死になって生きると言ったその顔を見上げ、土方は笑んだ。
「…その言葉忘れるなよ、近藤さん」