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皇帝ダリア

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「じゃあ配置はこの通り変更無しということで良いな」
煙草を灰皿に押しつけた手で、土方は卓上に広げていた江戸城の見取り図を閉じた。
「台風が近付いてるらしいんで、雨が降らないと良いですがねぇ」
まだ青い蜜柑を剥きながら、沖田が言う。蜜柑の乗った盆の隣に有った饅頭を、近藤の手がむんずと掴んだ。そうして大きな口でひとつを丸ごと頬張ると、「そういえば」と不鮮明な声で言った。饅頭の屑が土方の前に飛んできて、嫌な気分になる。
「きたねぇな。ちゃんと飲み込んでから話せ」
土方がそう叱ると、近藤はばつの悪そうな顔をして閉じた口の中で饅頭を租借し、ごくりと飲み込んだ。
「そういえば、今日の見廻りの途中でダリアの君に会った」
近藤の言葉に沖田が「なんですかい、ダリアの君って」と気の無さそうな返事をする。
「市谷の坂の途中に赤い皇帝ダリアの咲いた家があるだろう。そこの娘のことだ」
土方はそう説明し、それから「近藤さんがご執心の」と付け加えた。
「ああ、あそこですかぃ」
その坂を思い浮かべたのか、沖田が浅く頷いた。
「あそこは爺さん婆さんしか住んでねぇと思ってやしたが、娘なんかいたんですか」
「綺麗な娘さんでな。肌なんかこう、透き通るように白くて、林檎のような真っ赤な唇でよ。ダリアの下で俺のことをじっと見つめてたよ」
やに下がった顔で嬉しそうに言う。そんな近藤の横顔を見て、土方ははぁと溜息をついた。
「不審者だと思われてんじゃねぇのか、それは」
言ってやると、途端に情けない顔になって「そりゃねぇよ、トシ」と嘆く。
 やがて沖田が話に飽きてきたように蜜柑をいくつか着物の袖に落として部屋を出て行ってしまうと、土方は部屋の中央に布団を広げ、まだ饅頭を食べている近藤を誘った。
 男らしい肉厚の唇に口付けると、ねっとりとした餡の、甘い味がした。
 ダリアの君か…。
 沖田が言うように、土方もその家に娘がいるのを見たことはなかった。
 近藤がこんなに執着しているのも、少し気になる。微かに胸を刺す嫉妬心もあった。
 明日、見廻りの時に寄ってみるか…。
 近藤の腕に抱き込まれながら、そう決めた。






台風の影響か、翌日は風が強かった。
 市谷の大通りに車を止め、神楽坂に続く些か急な坂道を登る。
 ダリヤの咲いている家は古い家の並ぶ細い道の奥にあった。平屋の屋根を悠々と越える皇帝ダリアは今が盛りとばかりに目が痛くなりそうなほど真っ赤な花を咲かせている。細い茎はそれだけでは真っ直ぐに立てないのだろう。隣にある大きな花梨の木がそれを支えていた。
 通りを渡ってくる風に目を細めながら花を見上げていると、家の中から老婆が出てきた。痩せた体は背が曲がり、木の枝のように細い手に水の入った桶を持っていた。
「婆さん、手伝ってやろう」
土方が声を掛けると、老婆は顔を上げ「いえいえ」と笑った。
「お役人様のお手を借りるわけには参りません。これは毎日の日課で…私の楽しみなのです」
老婆はそう言いながらゆっくりと歩いてくると、ダリアの根元に水を掛け始めた。
「…見事な花だな」
そのまま立ち去るのも不自然な気がして、土方はそう言った。老婆は一通り土を濡らして満足したのか、桶を置き、土方と同じように天高く伸びたダリアを見つめた。
「そうでございましょう。…最初は白い花が咲いていたのです」
昔話をするような、遠い声だった。
「娘の生まれた日に、挿し木をして。娘が七歳の時に真っ白で綺麗な花が咲きました」
「娘さんがいるのか」
老婆の年齢からすれば娘はもう四、五十歳になるに違いない。では近藤が見たのは孫娘だったか、と土方は思った。
 老婆は土方を見て「一人娘がおりました」と言った。
「今では落ちぶれておりますが、これでも武士の血を引いておりますれば、夫が将来を案じて娘の気に添わぬ縁談を持ちかけたのでございます。相手は高貴な御方でした。娘は断りきれぬと思ったのでしょう。その年のダリアが咲いた朝、花梨の枝に帯を掛けて、首を括っていたのでございます。私共が見つけた時にはもう、冷たくなっておりました。それから十年、ダリアは花を咲かせませんでした。そうしてまた蕾がついたと思えば、このような赤い色になっていたのございます」
まるで御伽噺をするように、淡々と老婆は語った。
「思えば、毎朝ここで娘が挨拶を交わしていた、お役人様がおりました。あの方と心が通じていたのでしょう。身分が低い為、夫は相手にもしておりませんでした。娘が亡くなってから、あの方もどうなされたのか。一度も姿を見せなくなって」
ああ、でも。
 老婆はそう言葉を続けて、ダリアの茎をそっと撫でた。赤い花がゆらりと揺れた。
「最近、あの方に良く似た方を見かけるのです。そこに立って、じっとダリアを見ている、お役人様を」







「…どうした、トシ。俺の顔に何かついているか」
不意に話しかけられ、意識を引き戻された。知らぬ内に近藤の顔を凝視していたのだろう。困ったような、居心地の悪いような、そんな顔をした近藤が土方の頬を撫でた。
「あ、ああ…すまねぇ」
目を閉じて、落ちてくる口付けを受ける。
「今日市谷に行ったぜ」
近藤の肩を抱いて、体を反転させる。素直に土方に組み敷かれた近藤の腰に乗り上げるようにして、土方は上から近藤の顔を見下ろした。
「アンタの…ダリアの君は、…」
「トシも会ったのか?」
近藤の問い掛けには答えなかった。ただ、願うような気持ちで、近藤に口付けた。
「もう、あの家には行かないでくれ」
髪を撫で、耳朶を噛む。痛みに眉を顰めた近藤の上に腰を下ろしていく。自ら犯されていく熱に浮かされるように、土方は喘いだ。
「…なんだ。妬いているのか。珍しいな」
近藤が、おかしそうに笑った。それを聞いて土方も笑った。近藤がその顔を見て驚いたように、土方の顔に手を伸ばしてきた。
「トシ」
まるで土方が泣いているというように、乾いた指先が眦をぐっと拭う。土方はその手を取ると、固い手の平に唇を押しつけた。
「アンタがおかしなことを言うから、情けなくなっただけだ…」
「ひでぇな」
「好きだよ、近藤さん…好きだ。俺から離れないでくれよ」
急に溢れ出してきた激しい感情が、口を突いて出た。
 誰にも渡したくない。ひどい執着と、嫉妬。
 離れるくらいなら、死んだ方がましだ。
 花梨の木で首を括って命を絶ったダリアの君の、そんな声が耳に聞こえた気がした。
作品名:皇帝ダリア 作家名:aocrot