夕暮れのこと
そのうちに誰かが来たら拾わせれば良い。
そう思いながら、手元にある書類に朱印を押していく。
もう何枚押しただろうか。親指の付け根が強張っている。人差し指と中指もそろそろ限界のようだ。
溜まっていく書類を横目に、一週間ほど見て見ぬ振りをしてきたのがいけなかった。気付けば近藤の部屋の隅に山のように積みあがっていた書類に、土方が痺れを切らした。
アンタには今日はもう、屯所で書類の処理をしてもらう。
冷たい声でそう宣言されたのが昼一番のこと。それからずっと部屋に篭ってやっているのだが一向に片付く気配を見せない。
いつもならば文句を言いつつも手伝ってくれる土方は、近藤の代わりに警邏に出ていていない。沖田は近藤が声を掛けるよりも前にどこかへ行ってしまって、姿を見せなかった。
時々隊士が廊下を通り過ぎていくが、声を掛けてくる者はいない。きっと土方に、構うなと言われているのだろう。近藤の部屋の前を通り過ぎる時だけ足音が早くなるのが、腹立たしい。
むっと唇を結ぶと、手に変な力が入って朱印がぶれた。歪に掠れたそれを見て、溜息を吐く。
少し休むか…。
印章を放り出し、書類を払って退けた文机に伏せる。ひやりとした木の感触に頬をつけてぼんやりしていると、回廊を誰かが歩いてくる音がした。
どうせまた通り過ぎて行ってしまうんだろう。
拗ねた気分で顔を伏せたままやり過ごそうとしていた近藤の背後で、ふと足音が止まった。
「…丁度良いや。そこに落ちてる書類、拾っておいてくれ」
留守役をしている若い隊士だろうと思い、手を振って指図する。足音は静かに部屋の中に入ってくると、書類を拾い集めて回った。集めた紙を纏めて振るったのだろう。部屋の中に起きた小さな風が、近藤の鼻腔に良く知った煙草の匂いを運んでくる。
「…っトシ」
慌てて顔を上げると、いつの間にかすっかり薄暗くなっていた空を背にして、土方が立っていた。
「さぼってたわけじゃないんだぞ。少し疲れたから休んでただけだ」
少し前に自分が払い落とした書類を掻き集めてそう言った近藤に、土方は「そうか」と素っ気無く言った。
「本当だって。真面目にやってたんだって。ほらほら」
処理の終わった書類を束ねて差し出すと、土方がそれを受け取ってぱらぱらと捲って見る。
「…印鑑の位置がばらばらじゃねぇか。抜けてるのもあるし…。ったく…」
呆れたような声で言われ、返す言葉もなく黙る。土方は書類の束を文机の上に置いて、暫く黙っていたが、やがて「まぁ良いだろう」と溜息を吐いた。
「残りは明日一日あれば片付くな」
土方がさらりと続けた言葉に、思わず「明日もやるのか」と非難めいた声を出してしまう。
「嫌なら今夜寝ずにやってくれても良いんだぜ」
土方が形の良い眉を吊り上げてそう言ったので、慌てて「明日やります」と言い返した。
土方のことだ。今夜やると言えば、近藤が眠らないように見張りを立てることくらい平気でやりかねない。例え近藤の方が上司だろうが、容赦などしない男なのだ。
「もう疲れた。寝かせてくれ」
近藤が情けない声でそう訴えると、土方が「それがいい」と言って笑う。大きく溜息を吐いて畳の上へごろりと寝転んだ近藤の傍らに、土方が膝を折りしゃがんだ。
「明日なら、俺も少し時間が空くからな。手伝ってやろうと思ってたんだ」
まるで子供をあやすように言って、近藤の髪を撫でた指先を掴まえる。そのまま手を握って引っ張ると、土方は膝を付いて近藤の顔を覗きこんできた。
「トシ」
ひんやりとした土方の手に絡めた指に力を込めて、名前を囁く。土方がふと笑って顔を傾けた。
「仕方ねぇな、近藤さんは…」
触れてきた土方の唇は、手と同じでひんやりとして冷たい。それなのに口腔に触れてくる舌は熱くて、それがいつも不思議だった。
「真面目にやってたみてぇだからな。たまには俺が褒美をやろうか…」
そんなことを言って土方が近藤の身体を跨ぐ。上着を脱いで、ゆっくりと重なってくる身体を抱き寄せ、与えられる口付けに近藤は目を閉じた。