背中
車の後部席に乗り込むと途端に山崎が話しかけてきた。緩やかに発進した車は桜田門を出、屯所へ向かう道を走り出す。すっかり剥げてしまったお堀の桜を見ていた近藤は、「うん?」と訊き返して、山崎を振り返った。
「トシがどうかしたか?今朝は会ってないんだ。俺の方が先に屯所を出てしまったからな」
「どうかしたというか…何か元気が無かったんですよね」
山崎が腕組みをして首を傾げ、唸るように言う。
普段から土方と行動を共にすることの多い山崎がそう思うのならば、そうなのかも知れない。昨日の夜はどうだったろうか。
同じように腕組みをして首を傾げた。
昨日の夜、酒を酌み交わした時はいつもと同じ様子だったと思う。いつもと同じように、淡々と酒を飲んで、近藤の話に耳を傾けていた。時折呆れたような顔をして笑って。
夜更けになると少々酔っ払ってきたと言って、自分の部屋に戻っていった。
「俺の気のせいかも知れませんけど何か、いつもの覇気が無いっていうか…何も無いなら良いんですけど…」
山崎が窓の外を見て、呟いた。
屯所に戻り、すぐに土方の部屋へ様子を見に行ったが不在だった。屯所に戻ってきていると門番に立った隊士が言っていたので、どこかにいるのだろう。書庫か、もしかしたら道場かも知れない。
そう思いながら、風呂へ向かう。汗を流して着物に着替え部屋に戻ると、土方の部屋から明かりが漏れていた。
「トシ、いるのか」
コン、と一度襖を叩いた。少しの沈黙の後、「ああ」と短い返事があった。
「入るぞ」
声を掛け、襖を開ける。土方は文机に向かって何か書き物をしていた。手紙だろうか。長い紙が机の端から落ちて広がっている。擦り立ての墨の良い匂いがした。
「…ああ。悪い。邪魔したか?」
入り口で立ち止まって問い掛ける。土方は近藤に背中を向けたまま「別に」と短い返事を寄越してくる。黒い着物の襟から覗いた白い項に手をやって引っ掻き、「邪魔じゃねぇよ」と言う。
「何も書いてねぇから」
土方は言って、文机から紙を撫で落とした。畳の上にうねりながら落ちた紙には確かに何も書かれていなかった。
「…何かあったか?」
文机に肘をついた背中にそう問い掛ける。
「何かって何がだ」
「山崎がよ、お前が元気が無いようだと」
そう言った近藤に、土方が笑う。少し首を捻って見せた横顔が疲れているようで、心配になった。
「疲れてるのか」
「まぁ、そうだな」
「寝ていないからだろう」
「…うん、それもあるかもしれねぇ」
いつもは明確な答えを返してくる土方が、どうも歯切れが悪い言い方をするのでどうもおかしいと首を傾げると、土方がふ、と息を吐いた。
「近藤さん、こっちに来てくれ」
そう言って自分の傍らを叩いた土方の横へ行き、座った。すると、「そうじゃねぇ」と言われて土方に背を向けて座らされる。意味が分からずただ向こうに見える庭を見ていた近藤の背中に、こつりと何かが触れた。着物越しに背中を擽る髪の感触で、土方が頭を預けてきたのだと分かった。近藤の背中に頭を擦り付けるようにして、それから少し体を起こした土方の肩が背筋に触れた。
「…近藤さん」
「うん?」
「疲れた」
珍しく甘えるような声を出したので、笑う。振り返ろうとすると、ぐいと肩を押し付けてくる。
「情けねぇ顔してるから、見るな。山崎の野郎にまで悟られるとはな。アンタにはどんなふうに映るのかと思うと堪んねぇよ」
「…どんな顔してたって、トシはトシだろうが」
「アンタにはそうでも、俺はそうじゃねぇ」
嫌そうに言って、土方が黙る。誰かが廊下を走っていく足音が微かに響き、どこからか騒がしい笑い声が聞こえてくる。土方が溜息を吐くのが肩から伝わってきた。
「…手紙」
「うん」
「まだ書けそうもねぇや」
ぽつりと土方が呟いた。うん、と近藤は頷いた。顔が見えないので、せめて投げ出された手を握る。土方がゆるりと指を折って近藤の手を握り返してきた。その指の確かな強さと、触れ合った温もりが愛しかった。