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薄氷

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立春が過ぎ、頭上には良く晴れた青空が広がっている。その空に向かい、よいしょと沖田が腕を突き上げた。そのまま大きく欠伸をして、勢い良く振り下ろした手を腰の刀へとかける。一瞬後、土方に掴みかかっていた男の腕が、肘から切断され、まるで斬られたことに気付いていないかのように土方の着物の袷を掴んだままぶらりと垂れ下がった。
「うわぁあああ」
血の噴出した自らの腕を見て、男が咆哮を上げる。沖田がつと眉を寄せ「うるせぇな」という言葉と共に刀を一振りした。男の首が、皮一枚を残して胴体から切り離された。
 間合いを誤ったのかと思ったが、そうではなく、「どうですか」と沖田が得意気に言う。
「こないだは首がゴロゴロ転がって大変だったからなぁ。今日は拾いに行かなくて済みますよ、土方さん」
噴水のように飛び散る男の血を浴びながら、沖田がにこりと笑った。土方は自分の着物を掴んだままでいる男の腕を無造作にぐいと引き剥がし地面に捨てると、「殺すなと言っただろうが」と渋い声を出した。
「すみません、つい」
「つい、じゃねぇ。…おい、誰かいねぇか」
屯所の中に向かって声を掛けると、騒ぎを聞きつけていたのか若い隊士が何人か飛んで出てきた。
「どうしたんですか、副長…」
若い隊士達は実戦経験に乏しい。門の外へ顔を出し、血だらけになった沖田と、地面に転がる腕の無い死体を見て息を飲んだ。
「死体を中に入れておけ。山崎と尾崎を呼んで身元を調べさせろ」
言うと、土方は踵を返し門を潜り屯所の中へ戻った。
 今日は警視庁で予算会議がある。さぁ出掛けようと門を出た途端に、あの男に襲い掛かられたのだ。沖田が派手に剣を振るったおかげで、隊服にも血飛沫が飛んでいる。このままではとても公の場へ出掛けることは出来ない。
「とっつぁんに遅れるって連絡しておいてくれ」
丁度顔を出した原田に言いつけ、門の脇にある手水鉢に手を触れた途端、指先が水面に張った薄氷に当たる。爪に溜まっていた血が、氷の上にじわりと広がった。土方は舌打ちをしてその氷を端から持ち上げ、折って割った。
「今朝は寒かったからなぁ…氷が張ってましたか」
ざっと足音がして背後から沖田が声を掛けてきた。手に下げたままの刀、ゆらりと揺れたその切っ先から血が垂れては土に染み込んでいく。
 ああ、後でそれも水で清めておかなければならないと、土方は溜息を吐いた。
 手水鉢の中から氷を取り出して捨てる。沖田の靴の先でぱりんと音を立て氷が割れ、散った。
「…一人じゃ足りなかったか、総悟」
血に汚れた指先を冷水の中に入れ、洗う。すぐに手水鉢の中が赤く濁り、映りこんでいた土方の顔が歪んで消えた。
 沖田が地面に落ちた氷の欠片を踏みにじって割った。薄氷は太陽の光に溶けて土と混ざり、すぐに存在が分からなくなってしまう。
「…怖いなぁ、土方さんは」
沖田がそう呟いてうっそりと笑う。ふふ、と笑ってから「怖いな」ともう一度言って、今度は声を上げからからと笑った。
 背後に満ちていた殺気が立ち消え、獲物を探すように揺れていた切っ先が下がる。
「すぐに出掛ける。俺は着替えてくるから、お前は風呂場で血を洗い流してこい」
「へいへい」
ぽたぽたと血を垂らしながら、沖田が屯所の中へ入っていく。若い隊士達がその後ろを慌てたように追いかけていき、廊下を拭いているのを見ながら、土方は水から手を上げた。指先は半分感覚が無くなって、まるで氷のようになっている。その手で手水鉢に残っていた氷の欠片を持ち上げた。太陽に透かすようにして空に翳すと、薄氷は端から溶け始めて土方の腕を濡らし、やがて消えた。
「副長…」
手拭を持った隊士にためらいがちに声を掛けられ、手を振って水気を払う。
「…もう春だな」
手拭を受け取りながらそう声を掛けると、隊士は戸惑ったように「はぁ、まだだいぶ、その…寒いですが」と気の抜けた声を上げた。
 きっと土方らしくないと思われているのだろう。
 総悟の殺気に当てられたな…。
 首を傾げている隊士を笑うと、土方は「手水鉢の水を変えておいてくれ」と言って歩き出した。
 明日はまた薄氷が張るだろう。水面に、目に見えぬほど薄く張った氷は、まるで自分と沖田の間にある危うい感情のようだな、と土方は思い、その感傷的な感情を笑った。

薄氷に触れ、春を知る朝
作品名:薄氷 作家名:aocrot