花散里
晴れ間が覗くと若い隊士が雑巾を手に板張りの廊下を拭きに来る。
「そのうち乾くから放っておけ」
ばたばたと行き来する足音が鬱陶しくてそう言ったが、土方の声に足を止めた隊士が笑って
「この間局長が滑って転ばれたので」
と返してきたので、溜息を吐いて黙る。
その局長は夕暮れになって屯所へ戻ってきた。慌しく回廊を駆けてくる音に、あれでは廊下が濡れていなくても一緒だと思いながら頬杖をついて本の頁を捲る。新しい章を三行も読み進めない内に、部屋の襖がすぅと軽い音を立てて開いた。
「おかえり」
顔を向けないまま言うと、「トシ」と嬉しそうに名前を呼ばれる。いつまで経っても入ってくる気配がせず仕方なく振り向く。
「なんだよ」
そう問い掛ければ、子供のようにぶんぶんと手招きをされる。背中に隠した左手に何かを持っているのが見えた。それを見せたくて仕方ないような顔をして、「トシトシ」とまた名前を呼ばれる。
「ったく…犬じゃねぇんだからな」
文句を言って立ち上がり近寄っていくと、近藤が背中に回していた左手を土方の前に差し出した。その手の先に吊るされた、薄墨色の風呂敷。酒にしては形の歪なそれを覗き込めば、中に小さな苗木が入っていた。葉も花も何もついていない、ひょろりと弱々しい裸の木。
「四季桜だ」
視線を上げた先で、近藤が笑って言った。
「春と秋の二度咲きなんだぞ。すごいだろう」
得意気にそう胸を張るので、呆れてしまう。
同じような顔をして、一月の終わりにはどこからか紅白の梅の苗木を持って帰ってきたばかりだ。
「そんなもんばっか持ってきて、一体どこに植えるつもりだよ。この間の梅だってまだ鉢に入ったままなんだぜ」
腕組みをして近藤を叱るが、近藤は不思議そうな顔をして「トシの部屋の前に植えればいい。梅も桜も」と、あっさり言った。それ以上何かを言うのが面倒になり、溜息を吐く。
「…アンタに好きにさせとくと屯所が花だらけになっちまうな」
嫌味のつもりで言った言葉さえも、近藤の笑みを誘ったようで、「良いじゃねぇか」と笑われる。
「次は躑躅を持ってくるぞ。…なぁトシ。この庭に花が咲いて散って、また咲いてさ…そうやっていくのを見ながら一緒に酒を飲もう。お互いに年を取ってもいつまでもずっと」
そう言って、近藤は少し照れたように目を細めた。
言葉の意味を深読みして良いのか分からず、咄嗟に何も応えることが出来ず、黙る。じっと見つめると、近藤が困ったように笑った。
「…駄目か?」
「…違う」
やっとのことで出した声は、搾り出したように掠れていた。気恥ずかしくなり小さく咳をする。
「本当に馬鹿だな、アンタは…。そんなことを言って、花を枯らしてしまうなよ」
近藤の手から風呂敷を受け取り、その唇に掠めるような口付けをした。離れていこうとした土方の顎を近藤の指が掴まえる。与えられる深い口付けを受け、目を閉じた。
「絶対に枯らさないと約束する」
そっと囁かれた吐息が頬に触れる。
「大事にするから、俺と一緒にいてくれ」
長い腕に抱き締められ、優しくそう告げる声のくすぐったさに、土方は小さく笑った。熱くなった瞼を近藤の肩に押し付けると「好きだぞ」と言われ、我慢出来ずに少し泣いた。