雨の日、君の嘘
今夜は仕事が入っていない。寮に戻り課題を済ませて、それから…。
夕飯のメニューなどを考えてみる。きっと音也が一緒に食べたいと言い出すだろう。少しボリュームのあるものを出してやらなければ、夜中に腹が減ったと言ってつまみ食いをする。バランスを考えれば野菜を食べさせなければならないが…。
そこまで考えて、これではまるで母親のようだと溜息を吐いた。
とにかく、音也よりも早く寮に戻り、静かなうちに色々と片付けてしまおう。
そう思い、足を早めたその時、背中に何かがぶつかってきた。
とん、というよりはもっと大袈裟に、どん、というには軽やかに。肩に絡んできた腕に、その正体が誰だか分かったので、トキヤは振り向かずに「音也」と怖い声を出した。
「何をしてるんですか、あなたは」
おぶさるようにしていた体を、腕を引き剥がして自分の前へ引っ張った。
雨に濡れ、不規則な水玉模様を作った制服。音也の前髪に乗った雫がぽろりと零れ落ちた。
「トキヤ、傘入れてって。お願い」
音也は顔の前でぱちんと手を合わせるとそう言ってトキヤを拝んだ。
「傘はどうしたんですか?朝持って出たでしょう」
雨は朝から降っていたのだ。忘れるはずはない。
音也はトキヤの問いかけに「えーっと…」と困ったような声を上げた。
「えっと、傘、は、失くしちゃった」
歯切れの悪い言い方は、嘘を吐いている時だ。トキヤは少し首を傾げて音也の顔をじっと見つめた。
「…盗まれたんですか?」
もしや誰かに嫌がらせでもされているのかと思い、そう訊いた。音也は慌てて「えっ…違う違う!」と、首と手を同時に振り否定した。
今日、音也が持って出た傘は透明のビニール傘だ。どこにでも売っているその傘に、音也は失くしてしまわないようにと小さな絵を描いた。真面目な顔をして、油性ペンで書き上げた間抜けな顔をした音符の絵を。
確かに落書きがされた傘を、誰かが持っていってしまうとは思えない。
「何か…怪しいですね」
「何も怪しくないよ。良いから帰ろっ」
音也はトキヤから顔を逸らすと、トキヤの肩にぐいっと肩をぶつけるようにして歩き出した。
傘は小さくはなかったが、男二人で入るにはさすがに狭い。
溜息を吐いて歩き出したトキヤから、音也が少し離れていく。
「ごめん。俺、濡れても平気だからさ」
雨の中に右肩を出しながら音也が言うので、トキヤは呆れて音也の腕を引いた。
「風邪を引かれると迷惑です」
そう言って、トキヤは自分の隣に音也の体を引き寄せた。足を進める度、触れる肩や、指先。知らん振りをしていたが、音也が嬉しそうに笑うのが分かった。
途中夕飯の材料を買って寮に戻ると、エントランスホールに那月と翔がいた。二人も今戻ってきたのだろうかと傘を畳みながら見ていると、翔がこちらに気付いて駆け寄ってきた。
「音也、これお前のだろ」
そう言った翔の手には、ビニール傘があった。口を閉じずばさりとなったままのビニールの部分に、音也の絵が見えていた。
音也は驚いたように翔を見つめ、「どうして」と慌てたように言った。
「俺、わざと置いてきたのに。持ってきちゃったの?」
珍しく、翔を責めるような声で音也は言い、それからトキヤの視線に気付いて気まずそうな顔をして見せた。
那月が近寄ってきて、音也の肩をそっと叩いた。
「安心してください、音也くん。子猫たちなら用具員さんがダンボールごと拾っていきました。張り紙を作って引き取り手を捜してくれるそうですよ」
那月はにっこりと笑ってそう言った。
「マジで?良かったぁ…」
音也はほっと溜息を吐いて、翔から傘を受け取る。
「明日、猫、見に来ても良いってさ」
翔も笑いながら音也の肩を叩いた。
じゃあ、と言って二人が廊下の先へ行ってしまってから、トキヤは「なるほど」と溜息を吐いた。
きっと音也は登校途中か、それとも下校途中か分からないが、とにかく捨て猫を見つけ、傘を置いてきたのだろう。
「なんで嘘なんか吐いたんですか。素直に言えば良いものを」
呆れて言えば、音也は上目遣いにトキヤをちらっと見た。
「だって…トキヤ、怒るかなって思って…」
「そんなことで怒りませんよ」
「だってさ、前に猫拾ってきたら怒ったじゃん」
「それは、飼えないと分かっているのに連れてくるからです。あの時だって飼い主を探すのに大変だったでしょうが。聖川さんにまでご迷惑をお掛けして…」
トキヤはそこまで言って、溜息を吐いた。
音也はすっかりうなだれて、トキヤを見ていない。
嘘がばれれば怒られるのは分かっていたのだろう。分かっていたならば嘘など最初から吐かなければ良いのに。
「全く…あなたという人は…」
溜息混じりに言って、音也に背中を向けた。長い廊下を歩き出したトキヤの後ろを追いかけてくる足音。すぐ後ろを歩きながら、音也は部屋に着くまで何も言わなかった。
部屋に入り扉を閉め、買い物してきた食料を冷蔵庫にしまう。背後に音也が立ったのは分かったが、気付かない振りをしていると、「トキヤ、怒ってる?」と困ったような声で訊かれた。
トキヤは振り向き、音也に向かい合って立った。
「怒ってはいませんが、呆れていますよ」
「ごめん」
腹の前で両手をぎゅっと握り合わせて音也が謝る。
拗ねているような、泣くのを我慢しているような、そんな声を出すので、トキヤは仕方なく溜息を吐くと、音也の顔を上げさせ口付けた。甘えるようにトキヤに抱きついてくる体を腕の中へ引き寄せて、「全く、仕方が無い人ですね」と囁いた。
「明日、一緒に猫を見に行きましょう」
どうせ音也は、猫達の引き取り手を探す協力をしたいと言い出すだろうから…。那月と翔も巻き込まれるだろう。きっと、真斗やレンも。音也に頼まれれば集まるに違いない。
今日、何度目かのトキヤの溜息を聞いて、音也が笑った。
「ありがとう、トキヤ。大好きだよ…」
(2012年09月17日)