夏の終わり
トキヤは溜息を吐き、また足を踏み出した。
どうせこのまま行けば音也の後ろを通ることになる。音也のことだから、挨拶して終わりとはいかないだろう。
「…音也」
仕方なく自分から名前を呼んだ。音也は驚いたようにトキヤを振り向き、すぐに笑顔を浮かべた。
「トキヤも散歩?」
「いえ、そういうわけでは…。それよりもそんなところで何をしているんですか」
訊けば、音也はトキヤを手招いて呼び、自分の足元を指差した。
「応援してんの」
「応援…?」
意味が分からず、音也の指差した先を見下ろせば、蝉の死骸があった。引っ繰り返った蝉の白い腹にトキヤは眉を顰めたが、すぐに音也が指差していたのは蝉ではなく、それを運んでいる蟻の群れだということに気付いた。蟻達は蝉の死骸に群がるようにして忙しなく周りを歩き回っている。良く見れば蝉の死骸は蟻に運ばれじわじわと前に進んでいた。
「十分くらい見てるけど、あそこからここまで運んだんだよ」
音也はそう言って、すぐ近くにあったベンチの足元を指差し、その指先をつーっと蝉の死骸まで動かした。
蟻の巣がどこにあるかは分からないが、この速度では見守っているうちに日が暮れてしまうだろう。
「いつまで見ているつもりですか?私は帰りますよ」
溜息を吐いて、屈めていた体を起こす。音也が首を捻って上を向き、トキヤを見つめた。木漏れ日が眩しかったのか、ぎゅっと目を細める。
「なんか、すごいなぁって思ってさ」
「蟻がですか」
半歩だけ横にずれ、音也の上に影を作ってやった。音也は嬉しそうに笑って立ち上がろうとし、途中でよろけて背中からトキヤにぶつかってきた。半分わざとのように、トンと預けられた重みを支え、「ちゃんと自分で立ちなさい」と叱る。
「ごめん。嬉しくてつい」
「つい、ではありません」
音也の背中を押して立ち上がらせると、トキヤは歩き出した。すぐに追いついてきた音也が隣に並ぶ。腕が触れ、「近過ぎます」と文句を言えば、「いいじゃん」と笑って肩を摺り寄せてきた。
「デートみたいだね」
嬉しくて仕方ないようにそんなことを言うので、聞こえない振りをして池の方へ視線をやった。
傾きかけた太陽の光が緩やかに揺れる水面を金色に染めている。水鳥が一対、寄り添い泳いでいた。
「今日さぁ…三匹目なんだ」
ぽつりと音也が呟いた。振り向いて見れば、「蝉の死骸」と続けた。
「一匹目は学校の昇降口に落ちてた。誰かに蹴られてどこかへいっちゃった。二匹目は寮に戻る途中の道でさ、可哀想だから那月と一緒に穴掘って埋めたんだ。でもさ、放っておけば良かったって思った」
「…どうしてですか」
「だってさ、さっきの蟻みたいにその蝉の死骸を食べて生きてる動物だっているわけじゃん?そしたら食べてもらった方が良いのかなって思ったんだよ」
「あなたにしては珍しく難しいことを考えていたんですね」
「どういうこと」
音也はまるで子供のように唇を尖らせたが、すぐにそれを引っ込めて、今度は空に向かい大きく腕を突き上げて伸びをした。その腕を勢い良く下ろして頭の後ろで組む。
「なんかさ、あの蝉の死が蟻でもなんでも、とにかく何かの命を繋いでるんだなって思ったらすごいなって思ったんだ」
素直に感動したのだろう。ぽつぽつと語る声は溜息が混じっているように聞こえた。そのまま黙って考え込んでいるような横顔に、トキヤは小さく笑った。
「…あなたも私も、周りのものに繋がれて生きているんですよ。一人で生きてはいけないのですから」
そう言ってやると、音也は驚いたように腕を解いてトキヤをじっと見つめた。
「なんですか」
「…トキヤがそんなこと言うなんて、驚いて」
咄嗟に言葉が出なかったのだろう。ぎこちなくそう言った音也に呆れて、笑う。
誰かと繋がっているその温かさや大切さを教えてくれたのは、誰かが傍にいる幸せを教えてくれたのは、あなたなのに…?
「全く…自覚が無いというのも困ったものですね…」
トキヤは小さ溜息を吐くと、体の脇にぶらりと落ちた音也の手をそっと握って、指先から離した。目を逸らした音也の頬がじわりと赤く染まって見えたのはきっと、色濃くなった太陽の所為ではないだろうとトキヤは思った。