甘えたがりの君
音也がどこか不満げな声でそんなことを言い出したのが午後十一時過ぎ。音也は既に自分のベッドに寝転んでいて静かにしていたので、トキヤはもう音也が寝ているのだと思い込んでいた。寝言かと思い振り向けば、むくりと顔を上げた音也がトキヤを見ていた。
「…今、何か言いましたか?」
静かに問い返したトキヤの顔を、アーモンド形の目がじっと睨んでくる。
「だから、歯が痛いって言ったんだよ」
まるでトキヤが悪いとでも言いたげに言われ、溜息を吐く。
「虫歯ですか。つまみ食いばかりしているからでしょう。自業自得です」
そう言って音也に背中を向け、読みかけの本に視線を落とす。
今朝も昼食の弁当用に作っておいた卵焼きを、少し目を離した隙に音也に食べられてしまった。仕方なくその分はチェリートマトを入れて隙間を埋めたが、トキヤがそのことを叱ると音也は「だってトキヤの卵焼き、美味しいんだもん」と悪びれず言った。
たまに弁当のおかずが無くなっているのが音也の仕業だとは知っていたが、それをずっと溜息ひとつで許してきたのがいけなかった。
人間にも生涯躾が必要だ。
明日からはもっと厳しくしなければ、と思いながら本のページを捲る。
ギッとベッドが軋む音がして、音也が床に下りてきたのが分かった。暫くして背中から抱きついてきた腕が、本を掴んで強引に閉じてしまう。
「…音也」
呆れて名前を呼ぶと、耳元を擽るように笑い声がした。
「歯が痛いんじゃなかったんですか」
仕方なく椅子を反転させ、背後に立っていた音也を振り向いた。音也は悪戯が成功したような子供のように笑っていた。
「うん、痛いよ。痛いって言ってるのにトキヤが無視するからさ」
笑いながら言われ、歯が痛いのは事実なのだろうが、それ以上に構って欲しかったのだろうと気付く。
そういえば今日はトキヤの帰りが遅く、夕食も別々で、音也とはあまり会話を交わしていなかった。何度か話しかけられたような気がしたが、本を読んでいて適当にあしらったので、音也は拗ねていたのだろう。
「無視などしていないでしょう。全く…ほら、見せてみなさい」
腕を引いて座るように促せば、音也はトキヤの膝に手を着くようにして、床に跪いた。顎を持ち上げ口を大きく開けさせる。
「どこらへんですか?」
「右の奥の方」
音也はそう言うと自分の指を口の中へ突っ込んで、「うえ」と嘔吐いた。トキヤは音也の手首を掴んでそれを止めさせると、デスクの灯りの角度を変え音也の顔を照らした。
「眩しい」
音也が呟いてぎゅっと目を閉じる。唇まで閉じそうになったので親指で下唇を押さえた。
「…どう?」
唇を開けたままの不鮮明な発音で音也が尋ねた。
「そうですね…」
歯列を視線でなぞり確認するが、虫歯らしいものは見当たらない。白い綺麗な歯が整然と並んでいた。
「見た限り大丈夫そうですが、痛むようなら歯科へ行った方が良いでしょう」
音也の唇から手を離して告げる。灯りを逸らすと、音也はやっと目を開いてトキヤを上目遣いに見た。
「俺、歯医者さん苦手なんだ。行きたくないなぁ。明日になって痛くなくなってたら行かなくても良いよね?」
甘えるようにそう言って首を傾げ、トキヤの膝へ頬を乗せる。
「銀歯だらけのアイドルにでもなるつもりですか」
「それってすごい発想だね、トキヤ」
くつくつと肩を揺らして音也が笑った。
「全く…」
溜息を吐き、音也の脇に腕を入れるようにして持ち上げ立ち上がらせる。音也は素直に立ち上がると、トキヤの肩に抱きつくように腕を回し俯いた。
「おやすみのキスしよ」
そう言われ、顔を上げて音也の頬に唇を押し付ける。音也は不満げに「そうじゃなくて」と言ったが、トキヤは分からない振りをして今度は反対側の頬へ唇を押し付けた。
「トキヤ」
焦れたように音也が名前を呼んでくる。無理矢理のように唇を重ねられそうになり、トキヤは音也の唇を手の平で押さえた。
「知っていますか、音也。虫歯菌はキスで移るそうですよ。ですから、あなたがきちんと虫歯を治すまでずっと、ここへのキスは出来ませんね」
「えっ…」
音也が驚いたように目を丸くする。
今朝だっておはようのキスをしているのに、もし病原菌が移るのならばその時に既に移っているだろうという考えには、残念ながら至らなかったようだ。
「そんなの嫌だよ」
焦って言う音也の髪を撫でる。
「では、明日、ちゃんと歯医者に行きますか?」
囁けば、音也は渋々といったように頷き、「いいよ」と呟いた。少しすぼめられたその唇に誘われたが、トキヤは音也の額に口付けるだけに留めた。
「おやすみなさい、音也」
「おやすみ、トキヤ。…虫歯が治ったらいっぱいキスしようね」
そう言って笑った音也が口付けの代わりに擦り付けてきた温かな頬に、トキヤは小さく微笑んで、音也の体を腕に抱いた。
(20121216)