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「トキヤ、一緒に外に行こう。見せたいものがあるんだ」
音也はまるで犬のようにトキヤの周りを歩きながらそう言った。
「遠慮します」
何を見つけたのか知らないが、どうせ大したものではないだろうと断ると、音也が眉を下げて悲しそうな顔をする。
「…どうしても駄目?」
音也はトキヤの前に立ち止まると、上目遣いにトキヤを見つめ言った。どんぐり型の目にじっと見つめられ、額を押さえて溜息を吐き音也の傍を離れた。洗面所へ行きタオルを取って戻る。拗ねたように黙っている音也の額や首筋に浮かんだ汗をタオルで拭ってやっている間も、音也は黙ったままでいたが、トキヤが仕事から戻った時に椅子にかけたままでいたマフラーを音也の首に掛けると目を瞬かせた。赤いトレーニングウェアに、トキヤのブルーグレイのマフラーはだいぶミスマッチだったが、音也が嬉しそうに笑ったので、ただ肩を竦めて、首の前でぐるりと結んでやる。
「風邪を引くと困ります。…少しだけですよ」
そう言い聞かせて、上着を取って部屋を出た。
長い廊下を歩いている間に、レンと翔に会った。どこに行くのかと翔に訊かれ、いつもならばそんな時は必ず一緒に行こうと誘う音也が珍しく内緒と言って秘密にしたので、翔が目を丸くした。レンはおや、と言うように唇を歪めてトキヤを見ていたが、何も言わなかった。
また甘やかしているな、とそんな声が聞こえてきそうな表情だった。
寮を出て、音也がトキヤを促したのは湖の方向だった。
湖にはその周囲をぐるりと囲むように遊歩道が設けられているが、自分達の他に生徒の姿は見えない。湖面を揺らして吹いてくる風は肌を刺すように冷たい。
気が逸っているのか音也の足が時々早くなり、やがて駆け出しそうになるのを手を握って掴まえる。
「そんなに急がなければいけませんか」
音也が驚いたように振り返ったので、そう言った。音也は「うーん」と唸って少しだけ考えるような仕草をしたが、「ゆっくりでも良いけど」と言って、トキヤの手をぎゅっと握り返してきた。
冷たい風に冷えていたトキヤの指が、子供のように熱い音也の指にじわりと同調して温められていく。指を絡めると、音也が悪戯っぽく笑ってその唇を隠すようにマフラーへ埋めた。
遊歩道の脇には三日前に降った雪を集めて作った雪山が僅かに残っていて、音也は飛び跳ねるようにしてそれを踏んで遊ぶ。湖面に浮いている水鳥が羽根を繕う姿を指差したり、住み着いている野良猫を見つけては音也がつけた名前をトキヤに教えたりと、忙しない。
「今朝は湖を二周も走ったんだ」
得意げに言うので呆れて
「あなたは体力が有り余っているから、三周はした方が良いでしょうね」
と言えば、「次からそうする」と声を上げて笑った。
やがて目当ての場所へ辿り着いたらしく、音也がトキヤの手を引いて遊歩道を逸れた。ぽつぽつと草芽の生え始めた土を踏みながら躑躅の植え込みの間を歩いていると、少し開けた場所へ出た。
「トキヤ」
名前を呼ばれ、音也が指差す先を見上げる。
「…ああ…」
思わず溜息のような声が漏れた。音也がそれを聞いて、同じように息を吐いた。
そこには鮮やかな紅い花を咲かせる梅の木があった。まだ咲き始めなのだろう。花の無い枝にも膨らんだ蕾が綻び始め、今にも花びらが零れ出しそうになっている。翡翠色の小さな鳥が花を啄ばみながら枝から枝へ飛び移り、澄んだ鳴き声を上げている。
梅の花を見たのは、年が明けてから初めてだった。
「走ってたら目白が何匹も同じ方向へ飛んでいくのが見えてさ、不思議だなぁと思って追いかけてきたら、見つけたんだ」
音也が鳥を指差してそう言った。
「きっと一番最初の梅だよ。だから誰よりも先にトキヤに見せたかったんだ」
嬉しくて仕方ないように笑ったその笑顔が、秘密の宝物を見せる小さな子供のように無邪気だったので思わず笑ってしまう。
「ありがとうございます。とても、綺麗ですね」
トキヤはそう言って繋いだままの音也の手を引き寄せると、上気した頬へ唇を寄せた。
「もう春だよ、トキヤ」
音也が目を細めて笑う。そのまま頬を摺り寄せてくる体を抱き締めて、トキヤは柔らかな陽の匂いのする音也の髪に鼻を埋めた。