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特別なものは何も用意が出来なかったけれど、音也はきっと喜ぶだろう。
撮影が長引き、仕事を終え学園に戻る頃にはもう夜の十二時を回ろうとしていた。門前でマネージャーの車を降り、寮へと急ぐ。桜並木は盛りを過ぎ、風が吹く度に花吹雪を散らしている。等間隔にある外灯が当たる度、花弁が光を反射してきらきらと輝いた。
寮に戻り、自分達の部屋へと急ぐ。時計を見るたび、両針がじりじりと真上を目指している。
あと三分。
エレベーターを待つ時間さえもどかしくて、階段を上がった。
もう眠っているかと思ったが、音也は起きてトキヤの帰りを待っていた。まるでトキヤが戻ってくることが分かっていたように、ダイニングテーブルの前に立って、「おかえり、トキヤ」と笑った。
「…まだ、起きていたんですか」
「うん。なんか眠れなくて。それにトキヤが帰ってくるんじゃないかと思ったんだ」
音也がそう言った途端、テーブルの上に置いてあった音也の携帯が鐘のような音を立てた。腕時計を見れば、四月十一日になっていた。
音也の誕生日だ。
音也が首を傾げるようにしてトキヤを見つめてくる。
何か言うことがあるんじゃないの、と言うような悪戯めいた視線で。トキヤは溜息を吐いて、椅子へ鞄を置くと音也の肩を掴み顔を傾け唇を寄せた。柔らかな頬へひとつ、鼻の頭へひとつ、それから唇にひとつキスをする。
「誕生日おめでとうございます」
「やった。これで夏まではトキヤと同じ年だ」
左手でピースサインを出して、音也が笑う。
「そういえば去年もそんなことを言っていましたね」
「うん。だってさ、トキヤと同じになれるのって何か嬉しいじゃん」
そう言って抱きついてくる体を腕の中に受け止めた。音也はトキヤの首に腕を回して耳に唇を押し付けると、そのまま暫くじっとしていたが、やがて「本当はさ」とぽつりと呟いた。
「トキヤ、戻って来れないと思ってたんだ。だから、鐘が鳴ったら諦めて寝ようと思ってた。だってトキヤ、俺の誕生日のこと覚えてないみたいだったし、昨日も何も言わなかっただろ」
「まさか。四月に入ってから毎日のように翔から聞かされていましたからね。忘れたくても忘れられません」
音也の背を撫でて、溜息を吐く。肩口でくすくすと笑う顔を上げさせ、キスをした。唇の端を吸って離し、もう一度深く重ねるとうっすらと開いた唇の間から舌を差し入れた。
歯磨き粉の味がする。それがなんだかおかしくて、トキヤは小さく笑った。不思議そうな顔をした音也の手を引いて、ベッドへと誘う。しなやかな体を抱き寄せ組み敷きながら、トキヤは音也の耳へ口付けた。
「…特別に優しくしてあげましょうか」
椅子に置いたままの鞄から微かに聞こえてくる携帯のアラームでトキヤは目を覚ました。カーテンの隙間から柔らかな日の光が部屋へ差し込んでいる。重い頭を捻ると、腕の中に背中を向けていた音也が低く唸った。起きてしまったかと思ったがそうではなく、またすぐに静かな寝息が聞こえてくる。
疲れているのだろう。少し無理をさせたかも知れない。行為の最後にはぐずぐずと泣き出して、トキヤの体にしがみ付いてきた。
音也の体からそっと手を離し、顔を覗き込む。涙の痕はもう無かったが、瞼が少し腫れていた。寝癖のついた髪を撫で、額に口付ける。それでも音也は起きなかった。
トキヤは音也を残してベッドを出ると、自分のベッドから汚れたシーツを剥がし洗濯機へ放り込んだ。洗濯機を回している間にシャワーを浴び、キッチンに入った。冷蔵庫の中から朝食の材料を取り出し、コーヒーメーカーには二人分のコーヒー豆をセットする。
トマトを湯剥きしてサラダを作っていると、キッチンの入り口から音也が顔を出した。
「おはよう、トキヤ。起こしてくれれば良かったのに」
「起こしましたよ。あなたが起きなかっただけです」
小さな嘘をひとつ吐いて、音也を洗面所へ促す。音也は「嘘だ、起こされてない」と文句を言いながら洗面所へ入っていった。顔を洗う水音が聞こえてきたのを確認して、トキヤは鞄から昨日買ったカフェオレボウルを取り出して、音也の席へと置いた。そうしてまたキッチンへ戻り、トーストしたパンの間にスクランブルエッグとベーコン、レタスを挟んでカットする。それを皿の上に重ねサラダを添えた。出来上がった朝食をテーブルに運んでいくと、音也は席に着いていて、カフェオレボウルを両手で包み込んで見ていた。どうやって解いたのか、赤いリボンが音也の手首に戯れるように絡まっている。
トキヤは黙って、音也の前に朝食の皿を置いた。音也が顔を上げ、トキヤをじっと見つめる。
「…あなたに似合うような気がしたので」
音也が何も言い出さないので、言い訳をするように告げる。それを聞いて、音也は唇を綻ばせ笑った。
「ありがとう、トキヤ。すっごく嬉しい。嬉しくて、上手く言葉に出来ないくらい。…だってトキヤが俺の為に選んでくれたんでしょ。嬉しくないわけがないよ…」
音也の目から涙がぽろりと零れた。それを恥ずかしがるように目を擦るので、手を掴んで止めさせる。
「そんなことで泣かないで下さい」
「…だって、俺にとってはそんなことじゃないんだ」
そう言って、手の平で顔を覆って泣くので、呆れて笑った。
「…カフェオレを飲みますか?」
音也がなかなか泣き止まないので、そっと髪を撫でて訊いた。音也は涙を拭いながら顔を上げると、「もちろん」と応えて笑った。