夏風邪
朝、部屋を出ていこうとする音也を呼び止めて、トキヤはそう告げた。音也は不思議そうな顔をして足を止めると、「なんで」と訊いてきた。音也が疑問に思うのは当たり前のことで、そう訊かれるだろうと予想もしていたので、用意していた答えを返した。
「今日中に済ませなければいけない仕事があるんです。夜遅くまでかかりますので」
「別に俺、平気だけど」
その答えも予想済みだった。
「あなたがいると集中できません」
なるべく冷たい声を出して言った。
普段から自分が煩くしているという自覚はあるのだろう。音也はなんとも言えない表情をして「分かった」と頷いた。
「行ってきます」
そう言った声は音也らしくない、落ち込んでいるような、拗ねているようなそんな雰囲気だった。
部屋のドアが閉まるのを待って、トキヤは口元を手で覆い、咳を三度繰り返した。
喉がざらりとする。
どうも熱っぽいと気付いたのは昨夜だった。寝る前に計った時は微熱だったが、朝になり頭痛がひどくなっていた。
普段から音也には体調管理をしっかりとしろと注意している手前、音也に体調不良を悟られるわけにはいかなかった。音也が起き出す前に解熱剤を飲み、寝起きに強請られたキスは音也の柔らかな髪に口付けることで済ませた。
音也はあれでいて、熱を出しやすい。これまでも何度か風邪を引いて寝込んでいる。僅かながらやっと仕事が回ってくるようになったこの時期に風邪を移すわけにはいかなかった。
トキヤも仕事の為、昼前に寮の部屋を出た。スタジオでのグラビア撮影の仕事を終え、病院に寄り薬を受け取って夕方、寮に戻った。朝よりも熱が上がっていて、体の節々が軋むように痛んでいた。
音也はトキヤの言いつけを守り翔の部屋に行ったのだろう。ベッドの上に脱いだ服がそのままになっていたが、片付けてやる気にもなれず、着替えて薬を飲むとすぐにベッドに横になった。
体が重い。手足がベッドに沈み込んでいくような感覚の中、目を閉じる。
ああ…そうか…。
音也がいないから、部屋がひどく静かだ…。
ぼんやりとしていく意識で、ふとそんなことを思った。
どれくらい眠っていただろうか。微かに焦げ臭さを感じ、目が覚めた。すっかり日が暮れ暗くなった部屋に、キッチンからの明かりが漏れている。
薬を飲んだ時に電気を消し忘れただろうか…。
そう思ったが、その光の中を過った影に、そうではないと気付いた。
溜息を吐いて、ベッドサイドの小さな灯りを点けて起き上がる。キッチンを覗くと、音也がシンクに向かい何かと格闘していた。
「…音也」
そう声を掛けた途端、音也の手の中からゴトリと音を立て、一人用の土鍋が落ちた。慌ててそれを隠そうとするので、その腕を掴んで止め、トキヤは長い溜息を吐いた。
焦げ臭さの原因は、土鍋にこびり付いた、きっとおかゆになるはずだったであろう米の残骸だった。
「何をしているんですか…」
音也のしようとしていたことなど訊かなくても分かっていた。けれど、体調が悪いのもあり、少し意地悪い気分でそう訊いたトキヤから音也が目を逸らした。
「今日は翔の部屋に泊めてもらいなさいと言ったはずですが。あなたも分かったと言ったでしょう」
「だって…」
「子供じゃないのですから、だってと言うのは止めなさい」
音也の手から土鍋を取り上げシンクに置くと、トキヤは音也をキッチンから追い出した。
ああ、眩暈がする。
「とにかく、今日は翔の部屋に行ってください」
体調を誤魔化すのは諦めた。寝込んでいるのを見られては言い訳のしようがない。ただ音也に移すのだけは避けなくてはと、音也の背を押してドアの方へ促した。そんなトキヤの手から逃れ、音也が部屋の入り口へ立ちふさがる。
「嫌だ」
腕を取られないように硬く組んで仁王立ちになり、音也がそう言った。
「音也」
「だって、だってさ、トキヤの声がおかしかったの朝から気付いてたんだ、俺。だからもしかしてって思って帰ってきたら、トキヤ、寝てて、風邪薬置いてあるし…。知ってる?あの体温計さ、電源点けると一番最初に、すぐ前に計った人の体温が表示されるんだよ」
「………」
「三十八度も熱あるのに、何で何も言ってくれないんだよ」
怒りと悲しみが綯い交ぜになった瞳がトキヤを真っ直ぐに見つめてくる。咄嗟に言葉を返せずにいると、音也は悲しげな顔をして視線を落とした。
「何で俺のこと頼ってくれないの?あんな嘘まで吐いてさ。俺だって、傷付くんだよ?」
ああ、だからきっと、音也が朝見せた表情や、トキヤに聞かせたあの声は、音也なりにそれを知らせようとしていたのだろう。
気付いているのだと。頼って欲しいのだと。それから、トキヤにそうされないことに傷付いているのだと。
何かを言おうとして、言葉よりも先に咳が出た。音也から顔を逸らし咳き込むと、トキヤは溜息を吐いてベッドへ座り込んだ。音也が床に跪いて、心配そうにトキヤの顔を覗き込んだ。
「お水、いる?」
「いえ…大丈夫です。…嘘を吐いてすみませんでした。あなたに風邪を移したくなかったので…」
そう言ったトキヤの顔を音也は黙ったままじっと見つめてくる。それから、膝立ちになった体を伸び上げるとトキヤの髪を撫でた手で、そっとトキヤの頭を抱いた。
「俺はね、トキヤ。トキヤが辛い時、一番傍にいたいんだ」
「音也…」
「だってさ、トキヤもいつもそうしてくれてるだろ?俺が辛い時、一番傍で、ずっと一緒にいてくれるじゃん。それがね、すごい嬉しいんだ」
だから少しでも頼って欲しいんだよ、と音也は囁いた。子供のように熱い手が、トキヤの背中を撫でる。
「だからさ、一緒にいても良いでしょ?……焦がした鍋は明日洗うから」
最後の一言はばつが悪そうに加えられた。
「全く…あなたという人は」
「うん」
「仕方ないですね…」
「ごめん」
そう謝って、笑って。音也はベッドに横たわったトキヤの傍らに潜り込んでくると、トキヤの手を握った。
「トキヤ」
「なんですか」
「風邪が治ったらたっくさんキスしようね」
小さな声で囁いた音也の髪に口付けた。音也は嬉しそうに笑うと、トキヤの手に猫のように額を押し付けた。
「おやすみ、トキヤ」
「おやすみなさい、音也…」
(20120716)