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水の無いプール

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その日、気温が三十五度を超え、猛暑日となった。真上から照りつける太陽の光に、木陰を辿るように歩いて寮へ戻る。
 音也は大人しくしているだろうか…。
 暑い日にも平気で外に飛び出していく田舎の小学生のような同室者を思って、少し憂鬱になる。
 こんな暑い日には帽子をかぶって出かけなさいと、何度注意しても聞かない。そのうちに熱中症で倒れるのではないだろうかと心配になる。仮にもアイドルを目指しているのに、日焼けで顔を真っ赤にしてきたこともある。頬が熱いと言って洗面器に水を張り顔を突っ込んでいた音也には、トキヤがつらつらと言った嫌味は聞こえていなかっただろう。
 二人に与えられた一室の扉を開けると、玄関には音也の靴の他にふたつ、靴が並んでいた。誰か来ているのだろうかと思いながら部屋に入ったトキヤの目に、一番最初に飛び込んできたのはベランダに椅子を向けて座っている真斗の背中だった。
 微かに聞こえてくる水音。音也と翔の笑い声。
 嫌な予感がして真っ直ぐにベランダへ向かう。
「あ、おかえり、トキヤ」
トキヤを見上げ笑った音也は、ベランダに置かれた長方形の子供用プールの中に入っていた。
「早かったじゃん」
そう言った翔の手には水鉄砲があり、ベランダは水浸しになっている。それどころか部屋のフローリングにまで水が跳ねているのを見て、トキヤは閉口した。
「おかえり、一ノ瀬」
真斗が読んでいた本をぱたりと閉じて言った。
 水遊びをしている二人は話になりそうにもない。早々と見切りをつけ、トキヤは真斗に向き直った。
「何故こんなことになっているんでしょうか…」
努めて冷静に声を出したはずだった。だが滲み出てしまったトキヤの怒りに、真斗がふと笑う。
「一十木がプールに行きたいと言ったんだが、学校のプールが今日は清掃中で使用出来なくてな。爺に頼んで子供用のプールを用意させた」
「そんな怖い顔しなくても後でちゃんと拭くからいいじゃん」
「そうそう、音也の言う通り」
翔が勢い良く水の中に踏み込んで行って、音也の顔へ水鉄砲を向けた。音也がそれに応戦し出したので、またびしゃびしゃと水が弾けて周囲を濡らした。
「そういう問題ではありません」
仁王立ちになって言えば、音也が「じゃあ、どういう問題?」と混ぜ返す。
「音也、私は真面目に話をしているんですよ。翔も。…聖川さんも、音也をあまり甘やかさないで下さい」
トキヤはちらりと真斗を睨んだ。
「すまない。あまり暑いので、俺も涼を取りたかったのだ」
そう言って笑った真斗もズボンの裾を捲り上げ、裸足になっていた。
 なるほど。音也と翔が強気なのは真斗が仲間にいるからか…。
 気付いて、溜息が出た。
 音也と翔の戦いは続いている。その内に水鉄砲の水が無くなったらしい翔がプールの中にしゃがみこんで水を補給している間、一時休戦となって水音が止んだ。
 カーテンを大きく膨らませた風に、音也が眩しそうに目を細め空を仰いだ。手の平で掬い上げた水を顔の高さから零す。その水の雫が太陽に反射してキラキラと輝いた。気付けば、プールの水を反射したベランダの天井や壁も、ゆらゆらと光が踊り水中の様になっていた。
 空を見上げていた音也の視線がトキヤを捉え、声を立てず笑う。
 ね、綺麗だろ?
 そう言っているようだった。
 全く…。
 トキヤは短い溜息を吐いて、固く組んでいた腕を解いた。ダイニングテーブルの椅子を引っ張り、真斗の隣に置き座る。
「トキヤも入れば良いのに」
「冗談じゃありません。私はあなた達が部屋を水浸しにしないよう見張っているんです」
「すっごい気持ち良いのになぁ」
首を傾げた音也の頭に、翔が繰り出した水がびしゃりとかかった。そこから再び始まった水遊びに、トキヤはまた溜息を吐いた。それを聞いて、真斗が静かに笑う。本を開く乾いた音がさらりと聞こえた。
 水の光がゆらゆらと揺れる。
 水滴が太陽の光になって飛んでいくのを見ながら、トキヤはゆっくりと足を組んだ。
 暑いはずの日差しが、少しだけ涼しくなったような気がした。

(20120826)
作品名:水の無いプール 作家名:aocrot