ワンダフル入浴
音也の濡れた髪の毛先にぷくりとした水滴が生まれる。それはポタポタと柔らかな音を立てバスタブに張ったお湯に円を描いて落ちていく。
湯船に浮かぶ、ビニールで出来た黄色いヒヨコのおもちゃ。それを弄くっている音也の耳の後ろにうっすらと残った泡に気付いて、トキヤは仕方なくそれを指先で拭ってやった。くすぐったかったのだろう。音也が首を竦めて笑う。
トキヤはそれを見て、溜息を吐いた。
二人がいる場所は、一緒に暮らしている寮の部屋の浴室だ。男二人で入るには少々狭いバスタブの中で、自分の足の間に納まるようにして座った音也の背中を見つめながら、トキヤは先程までの出来事を思い出していた。
天気予報を信じて傘を持って出て良かった。そう思いながら雨の中、部屋に戻ったのが四時過ぎ。その時、音也はまだ帰ってきていなかった。
ふと音也が傘を持って出たか気になったが、自分と一緒に天気予報を見ていたのだからきっと忘れずに持っていっただろうと思い、鞄を置いて浴室に向かった。
いつもならばそんな早い時間に入浴をすることはないが、十二月中旬並みの気温と強い雨風に体が冷え切っていたのだ。
バスタブにお湯を溜める為浴室に入った時、ふと見慣れないものがバスタブの中に転がっているのに気付いた。それはビニールで出来た黄色いヒヨコのおもちゃだった。きっと音也が那月に貰ってきて、そこへ放っておいたのだろう。
トキヤは溜息を吐きながらヒヨコを拾い上げて縁へ置き、バスタブの中へ熱いお湯をたっぷりと張った。
髪と体を洗ってから、湯船へ体を沈める。冷えていた手足がじわりと温かくなっていく感覚に息を吐いて目を閉じ、静けさに耳を澄ませた。
だが、一人きりの穏やかな時間は長く続かなかった。帰ってきた音也が突然浴室に入ってきたからだ。音也は頭の天辺からびしょ濡れになっていて、寒い寒いと言いながら浴室に入ってくるとそこで濡れた服を脱ぎ、脱衣場へ放り出した。
「…な、んですか、一体」
あっという間に素っ裸になった音也に、頭の回転がついていかず呆然として訊けば、「急に雨が降ってきたからびしょ濡れだよ」と音也が言って、手をバスタブの中へ突っ込んできた。折角温まっていたのに、音也の冷たい指先が肩に触れる。
「何をしてるんですか」
「ちょっと詰めてよ」
体を強張らせ音也を叱ったトキヤに、音也は軽い口調でそう言った。
「駄目です。…だいたい、傘はどうしたんですか。まさか持っていかなかったんですか?」
「だって朝晴れてたじゃん」
「あなたも朝、天気予報を見たでしょう」
「雨降るなんて言ってたっけ?それより早く詰めて。寒い」
音也が体も洗わずに湯船に入ろうとしたので、トキヤは慌ててそれを拒んだ。
「駄目だと言っているでしょう。私が出るまで待ちなさい」
「良いじゃん、トキヤのケチ。俺が風邪引いたら怒るくせに。意地悪」
頬を膨らませての大ブーイングに、トキヤは額を押さえた。仕舞いには、寒くて死んじゃうと大袈裟に体を震わせる音也に溜息を吐いた。
「…せめて、体を洗ってからにして下さい。それに、髪も」
仕方なくそう言うと、音也は「はぁい」と間延びした返事をして、髪を洗い始めた。それがまた雑なので、水の雫や泡がトキヤの方へ飛んでくる。湯船に浮かんだ小さな泡の粒に、小さな苛立ちを感じたが注意するのは諦めた。音也はトキヤには理解出来ないほど短い時間で髪と体を洗うと、バスタブに飛び込んできた。
そして、今に至る。
何度目かの溜息を吐いたトキヤに構わず、音也は子供のようにヒヨコを湯船に泳がせ鼻歌を歌っている。
トキヤは湯船を掻き混ぜるようにしてお湯を掬い上げ、音也の肩に掛けてやった。
こうして二人で風呂に入るのは初めてのことではない。前に一度、音也にねだられて一緒に入ったことがある。その時はどうして良いか分からず向き合って入ったので、お互いに目と足のやり場に困った覚えがある。
恋人同士でお風呂に入るのって夢だったんだよね。
音也はそう言って、片膝を抱えて笑っていた。
もう何ヶ月も前の記憶を思い出していると、音也が不意にトキヤを振り向いた。体を捩ってキスをねだるので、濡れた唇を軽く重ねる。音也の肌から、淡い石鹸の香りがしていた。
浴室のアメニティーはトキヤが全て選んでいる。音也にはあまり拘りが無く、文句も言わずトキヤの用意したものを使っている。特に感想も無いので、音也と恋人という関係になる前に一度だけ、どうですかと訊いたら、トキヤと同じ匂いがするね、と笑われて戸惑った。そういうことを訊いたわけではないと思ったが、音也があまり嬉しそうに笑うので、何も言えなかった。
あの時はまだ、自分の気持ちにも、音也の気持ちにも気付いていなかった。
音也はどうだったのだろうか…。
キスを止め、音也を見れば首筋が赤く染まっている。
「…そろそろ上がった方が良いのでは?あなたはすぐのぼせるんですから」
そう促すと、音也は「うーん」と少し悩んでから、立ち上がった。
「トキヤも早く出てきてよ。今日は一緒にご飯作ろ」
音也はバスタブを出ると、そう言って手に持っていたヒヨコをトキヤに放ってきた。
浴室の扉が閉まり、擦りガラスの向こうに音也の影が動くのを見ながら、トキヤはヒヨコを湯船に浮かべ溜息を吐いた。
暫くすればまた音也が顔を出し、今度は腹が減ったと騒ぎ始めるだろう。どうやら今日は、優雅な入浴タイムを諦めるしかなさそうだ。
「全く…仕方ないですね…」
そう呟くと、扉の向こうから「何か言った?」と音也の声が聞こえてくる。それに「何でもありません」と応え、トキヤは小さく笑った。
(20121107)