Talk To Me
明日はまた早くから授業がある。
帰ったらシャワーを浴びて、食事は…野菜ジュースでも作ろうか。夕方に軽食はしたし、この時間にあまり多くのものを摂らない方が良いだろう。
そんなことを考えながら、トキヤは月明かりの差し込む廊下を急ぐ。
さすがにこの時間に出歩いている生徒はいない。こつこつと、自分の踵が立てる固い音だけが高い天井に響いていた。建物は立派だが、無駄に広い。なかなか部屋に辿り着かないのが難点だと、華美な装飾の施された踊り場を通り過ぎ、階段を上がった。
音也はもう寝ているだろう。
同室になったばかりの頃は起きて待っていることがあったが、その度に無駄な気遣いだと諭してきたトキヤに、音也はいつも、なんともいえない表情をした。
なんか、一人の部屋ってまだ慣れなくてさ。ヘッドフォンして音楽聴いてても、音楽が途切れた瞬間に、しんってするだろ。あれ、苦手なんだよね。
ある夜、遅くまで起きてトキヤを待っていた音也がそう言った。
あの時は自分も仕事で疲れて、少し苛立っていたのだ。子供ですか、と呆れた。
とにかくもう、起きて待っていないで下さい。迷惑です。
そう言って、音也に背中を向けた。ごめん、と謝る声が背中に投げかけられたが、無視をして浴室に入った。シャワーを浴び浴室から出ると音也は壁に向かって、布団を巻き込んでまるで繭玉のようになって寝ていた。
ぴくりとも動かないその姿を見て、少し後悔した。朝になったら苛立ちに任せてきつく言ってしまったことを謝ろうと、そう思って迎えた次の日、音也の態度が全くいつも通りだったので謝るタイミングを逃し、今もまだ謝りそびれている。
深夜に部屋に戻る時はいつも、そのことを思い出す。
部屋の鍵を開ける。そっと扉を開けるとやはり音也は寝ているようだった。しんと静まり返った部屋に、微かに寝息が聞こえてくる。足を忍ばせデスクの灯りを点けた。音也の方を窺えば顔を掛布団に埋めるようにして寝ていた。
昼に食堂で会った時、放課後はクラスメイトに誘われてバスケをすると言っていた。きっと疲れているのだろう。
明るい色の髪を見ていると、不意に顔が見たくなった。近付いていき、布団の影に隠れている顔をそっと覗き込む。鼻も唇も布団の下にあるので、息苦しくないのだろうか、と思って少し笑った。
その気配が伝わったのだろう。音也が小さな唸り声を上げて、目を開いた。浅く押し上げた瞼を一度ぎゅうと下ろし、また緩々と上げる。
「…すみません、起こしてしまいましたね」
他に誰も聴いている人間などいないのに、暗闇では何故か囁き声になってしまう。音也はトキヤの声を聞くとまだ寝惚けているような顔を綻ばせ、おかえりと言った。音也にはあまり似合わない、小さな小さな囁き声だった。
「お疲れ様、トキヤ。…遅かったね」
「ええ、仕事が長引いてしまって。…私はまだ少し起きていますが、あなたは寝て下さい」
そう言って傍を離れようとしたトキヤの手を、音也が掴まえる。寝ていたからだろう。とても熱い手の平だった。
「音也…?」
「トキヤ、何か俺に言いたいことがあったんじゃないの?そんな顔してたよ」
手を離すまいというように、指が絡まってくる。そうしてトキヤの手を捕えると、音也はそれを自分の唇に押し当てた。
「何かあったなら、話してよ」
そう言って、トキヤの人差し指を甘噛みする。子猫のような仕草にトキヤはそっと溜息を吐いて、音也のベッドの傍らへと膝をついて座った。
「…前にあなたが寝ずに私を待っていた時、私は苛立ちに任せてあなたにひどいことを言いました。覚えていますか?」
「うん。…すごく悲しかったから、よく覚えてるよ」
音也が首を傾げて笑う。手に擦り付けられた柔らかな頬を、トキヤは指先で撫でた。
「あの時はすみませんでした。ずっとそれを、謝りたかったんです」
胸につかえていたものをひとつ、消すことが出来た。言葉にすると自然に笑みが零れた。それを見て音也がトキヤの頬に触れた。
「ねぇ、トキヤ。きっと俺はあの時にはもう、トキヤのことを好きになってたんだ。だからあんなに悲しかったんだよ」
しなやかな腕が首に巻き付くようにして、トキヤを引き寄せる。
「キスしてくれたら、許すよ」
悪戯っ子のようににこりと笑って、そうねだった音也の唇に、トキヤは顔を寄せた。
「仕方ないですね、あなたは…」
そう囁いてキスを交わした唇は温かかった。
(120104)
作品名:Talk To Me 作家名:aocrot