雨の足跡
放課後の教室、窓ガラスを叩く雨の音。
教科書を纏めて鞄に仕舞い立ち上がろうとしたトキヤの前に立った女生徒が、おもむろにそう告げた。
教室には二人以外誰も残っていない。女生徒はトキヤと二人きりになる機会を狙っていたのだろう。
「校則を忘れたのですか?」
トキヤはそう言って、今度こそ立ち上がった。
「校則のことは分かっています。でも、知っていて欲しかったんです」
女生徒が必死になって言い募る。行く手を阻むように立ち塞がれ、トキヤはちらりと女生徒を見た。
感情を圧し殺した自分のその表情が、他人にどんな印象を与えるかは良く理解している。案の定、女生徒は表情を強張らせ、足を踏み出したトキヤに気圧されたように身を避けた。
「あなたもアイドルを目指しているのならば、このような愚かな行いは控えた方が良いですよ」
冷たく言って、女生徒の前を通り過ぎる。
背中に浴びせられる視線を鬱陶しく感じながらドアに手を掛けようとしたその時、背中から抱き付かれ、トキヤは溜息を吐いた。
レンならばこんな時、何と言って女性をあしらうのか。
複数の女性を相手に恋愛関係を築いている級友の顔を思い浮かべたが、そもそも自分と彼とでは性格が違いすぎると苦々しく思う。
腹に回された女生徒の手を掴み、二度と自分に近付く気にならないよう冷たく切り捨てようと唇を開いたところで、不意に教室のドアが勢い良く開いた。
「あっ」
場違いなほど大きな声。ドアの向こうに突っ立っていたのは音也だった。
音也はトキヤの腹に回された女生徒の腕を見て、何かを勘違いしたような、そしてそれを咄嗟に誤魔化したような、微妙な表情をして見せた。
誤解です、とその僅かな一言の言い訳をさせる隙もトキヤに与えないまま、音也が笑った。ふにゃりと音がしそうな、その間抜けで情けない表現がぴたりと合う、そんな顔だった。
「邪魔してごめんっ」
顔の前に手を合わせ、勢い良くそう言って、音也は背を向け走っていってしまう。
「こら、音也、待ちなさいっ…ああ、もう…」
遠ざかる足音に舌打ちをする。トキヤはその苛立ちのまま女生徒の手を振り払い、肩越しに彼女を睨んだ。
「はっきり言います。あなたの気持ちは、私にとって迷惑でしかありません」
女生徒の瞳がじわりと潤む。
馬鹿馬鹿しい茶番だ。
彼女の涙にはほんの少しも心を揺さぶられない。
トキヤはもうそれ以上何も言わず、教室を出た。
とにかく、音也を探さなければ。
音也の所属するAクラスの教室を覗くが、電気の消されたその場所にはもう誰もいない。
他に音也が行きそうな場所…寮の部屋には戻っていないだろう。級友のところにも行ってはいないはずだ。
こんな雨の日は、彼のお気に入りの日溜まりは全てびしょ濡れになっているだろうし…。
窓の外、濡れたアスファルトを見下ろして、トキヤは息を吐いた。途方に暮れて立ち止まり、腕を組む。
電話をかけたところで、繋がりはしないだろう。
そう思い視線を落とすと、廊下にきらりと照明を反射するものがあった。何気無く近付いてみれば、そこには小さな水滴が落ちていた。水滴はぽつぽつと不揃いな軌跡を廊下に描いて、その先にあるレッスンルームへと続いている。
それを見てふと、直感が働いた。
トキヤはゆっくりと水滴を辿りレッスンルームの前に立った。ドアにある小窓から中を覗くが、そこからでは音也の姿は見えない。
ドアノブに手を掛け、内側へ押し開いた。何かが転がる、小さな音。それが、ドアに立て掛けてあった傘だと、横たわったその柄の部分に躓いて気付く。
なるほど。水滴はこの傘から零れ落ちたものだろう。
床に出来た小さな水溜まりを跨いでレッスンルームへ入り、ドアを閉める。
音也はドアのすぐ横の壁へ背を預けるようにして座っていた。ぎゅっと抱えた膝に顔を押し付け隠している。髪の間から覗く耳朶が真っ赤に染まっていて、トキヤの溜息を誘った。
「音也」
名前を呼んで、トキヤは膝にしがみついている音也の腕を掴んだ。音也は余計に体を固く縮ませて、トキヤの手を拒む。
「顔を上げなさい」
「ヤダ。だって俺、今すっごい嫌な顔してる」
駄々をこねる子供のように音也が言った。音也の腕を離し、耳朶に触れたトキヤの手を払って、手の平で耳を塞ぐ。
「…言い訳くらい、させてもらえませんか?」
仕方なく音也の髪を撫でながら、トキヤはそう言った。
「まぁ、そんなことをしなくても、あなたならば分かっていると思いますが…」
トキヤの言葉に、音也がすんと鼻を啜る。
「分かってたって、すごい嫌だよ…」
泣き出しそうに強張った声。
トキヤは音也の前に跪き、耳を塞いだままでいる音也の手を握った。指を絡め引っ張ると、音也は素直にそれに従った。耳を蓋していた手が外され、露になった柔らかな耳朶にそっと唇を寄せる。トキヤがわざと、濡れた音を立て薄い皮膚を吸うと、音也がひくりと身体を震わせた。
「どんな顔をしているのか、見せて下さい」
囁いて促せば、音也が躊躇いがちに顔を上げた。
目が合った途端、ぐっと眉を寄せた音也の瞳から涙が一粒溢れ落ちる。
ああ、やはり…。
トキヤは小さく笑って、息を吐いた。
小さな仕草、僅かな表情の変化…たったそれだけのことでこんなにも音也は自分の心を揺さぶって、切なくさせる。他の誰でもない、音也だけが…。
「なるほど…情けない顔ですね」
笑いながら言ったトキヤに、音也が「どうせ」と短く言い、すぐに唇を噛んでトキヤの肩に抱きついてきた。
大きく鼻を啜る音が聞こえてきて、呆れる。
「トキヤが俺じゃない誰かにあんなふうにされてるの見ると、泣きたくなる…」
少しだけ掠れた、甘く切なげな声。トキヤの肩に強く縋った音也の手の温もり。
「この世界で俺だけがトキヤのことを好きなら良いのに」
ぽつりと呟かれた言葉に、胸がくすぐったくなり笑う。
「例え他の方に同じようにされたとしても、私の腕が選ぶのはあなただけですよ、音也」
トキヤはそう囁いて、音也の背をぎゅっと抱き締めた。
ざんざんと、雨の音が聞こえる。いつもは太陽の匂いのする音也の身体から、雨の匂いがした。
(130122)