まさか、そんな
都心の繁華街で買い物をした帰り道、行きの電車で煩いと叱った所為か、音也は静かで大人しい。
扉近くに立って買ったばかりのCDを袋から取り出し眺めている音也を横目に、トキヤはぼんやりと今夜の夕食について考えていた。
冷蔵庫には鳥挽肉と豆腐がある。確か葱もあったはずだから、豆腐ハンバーグでも作ろうか。大根もあったので、挽肉はつみれにして、みぞれ鍋にしても良いだろう。
ガタンと電車が揺れ速度を落として、駅に停まる。私鉄が乗り入れているからか、ホームは大勢の人で混雑していた。扉が開き、トキヤの背後にいた男性が降りるのを避けていると、音也の傍に戻る前に人が雪崩れ込んできた。音也が驚いたようにトキヤを振り向く。それに視線で応えて、トキヤはどうにか、音也との間に女性一人を隔てた位置へ踏み留まった。音也はトキヤがそう離れていないことを確認してホッとしたように手摺を離すと、またCDを眺め始めた。
音也のいる方向の扉は、二人が降りる三つ先の駅まで開かない。暫く放っておいても大丈夫だろう。
CDは音也の好きなバンドの新譜だ。音也はそれの発売を二ヶ月も前からずっと楽しみにしていた。帰ったらすぐに聴きたいと言っていたから、きっと夕飯の準備は手伝わないに違いない。代わりに後片付けを全部させようか。
そんなことを思いながら音也の方を見るともなしに見ていると、音也がふと顔を上げて扉のガラスに写った自分の顔をじっと見つめた。何かを考えているような顔をして、微かに首を傾げる。それから、ちら、とトキヤの方を振り向いた。
何か…買い忘れたものでも思い出したのだろうか。
そう思って音也の顔を見たが、音也は何事も無かったかのようにまた前を向いて手元のCDに視線を落とした。
電車が次の駅に到着し、降りる人の倍の乗客を詰め込んでいく。音也は後ろから押されるようにして扉にべたりと張り付いた。慌てたようにCDを仕舞っている。
普段、満員電車に乗らないので、どうしていいか分からないのだろう。窮屈そうにじっとしていたかと思うと、もぞりと動いて肩の位置を変えたり、腕を上げ扉に縋ってみたりと、どうにか自分の居場所を作ろうとしている。
トキヤのいる車両の中程より、音也のいる扉付近の方が混雑が激しい。こんなことならば最初から音也を内側に立たせておけば良かった。
ガタゴトと電車は揺れながら走っていく。音也は落ち着かないのか、もぞもぞと動いては近くにいる女性に迷惑そうな視線を向けられていた。もし手が上に上がっていなければ痴漢と間違えられているだろう。
次の駅で近くに呼び寄せようか。
トキヤが密かに溜息を吐いた時、電車が大きく揺れた。音也が驚いたように体を震わせて、扉にへばりつき、それから不愉快そうにぎゅっと眉を寄せた。足でも踏まれたのかも知れない。
音也がまた、ちらりとトキヤを振り向いたその時、駅のホームに滑り込んだ電車がカタンと揺れて止まった。
しゃがれた声のアナウンスが入り、扉が開く。その途端、音也がすごい勢いで体を捻るようにして人を掻き分け、トキヤの傍に来た。
「もう降りる」
突然そう言った音也の強張った手に腕を掴まれぐいぐいと引っ張られるまま、電車を降りる。あまりの強引さに抗うことも忘れた。トキヤに出来たのは、「なんだよ」と迷惑そうに声を上げたサラリーマンに「すみません」と謝ることだけだった。
本当に降りるべき駅まではあと一駅ある。
走り去る電車を呆然と見送ってから、トキヤはまだ自分の腕を掴んだままでいる音也を振り向いて…驚いた。
俯いて手の甲で唇を押さえるようにした音也の顔が、耳朶まで真っ赤に染まっていたからだ。
「…なんて顔、してるんですか」
小さく呟いたトキヤの腕を引っ張って、歩き出した音也を追う。ホームの端にある改札を出て、線路沿いの道を歩き出すと、音也はやっとトキヤから手を離して、はぁ、と溜息を吐いた。
「…あー、びっくりしたぁ」
音也の大きな声に向かいから来ていた散歩中の犬が迷惑そうな視線を寄越した。
「何があったんですか」
「え、っと、」
言い難そうにしている音也の言葉の先を視線で促す。
音也のおかげで一駅分歩くことになったのだ。理由くらいは知る権利があるだろう。
音也は擦れ違った犬とその飼い主をちら、と振り向き、彼らがもう二人の声が聞こえない場所まで遠ざかっているのを確認すると、自分のスニーカーの爪先へ視線を落とした。
「ずっと、触られてて」
ぽつりと音也が言ったことの意味が分からず、「は?」と問い返す。音也は怒ったように顔を上げ「だから」と言って頬を染めた。
「ずっと触られてたの!尻を。最初は勘違いだと思ったんだけど、駅に着く前に、前も触られて。そんで気持ち悪くて、我慢出来なくなったから降りたんだよ」
「な…」
驚いて足を止めたトキヤに、二歩、三歩先を行った音也が立ち止まり振り向いた。
「なんでもっと早く言わないんですか!」
音也の顔を見つめ言えば、
「だって、俺男なのに痴漢に遭うなんて思わないじゃん!」
拗ねたように言い返された。
音也に対するもどかしさと、相手の人間に対する憤りに胸が沸々とした。
立ち止まった二人を、買い物帰りの主婦が怪訝そうな目で見ながら通り過ぎて行く。とりあえず歩き出したトキヤの隣に並んだ音也が「ごめん」と小さな声で謝った。
「何故あなたが謝るんですか」
苛々として言う。
悪いのは痴漢で、我慢をしていた音也ではない。それくらいは分かっている。
「だって、トキヤ怒ってるじゃん」
落ち込んだように音也が呟いた。トキヤはそれを聞いて、長い溜息を吐き出した。
「…当たり前でしょう。恋人が痴漢にあって怒らない人間がいますか。でもこれはあなたに対して怒っているわけではりませんので…音也?」
トキヤが話しているにも関わらず、音也はだんだんと俯き歩みが遅くなっていく。肩越しに振り向いて見れば、音也はまた、顔を真っ赤にしていた。
「…どうしたんですか。まだ、何か…」
「違う違う。だってトキヤってば真面目な顔して、俺のこと、恋人とか言うから…驚いて」
そう言って唇を覆った手を呆れながら剥がすと、音也は耐え切れないように笑い、「嬉しくて」と、ぽつりと呟いた。トキヤは短い溜息をひとつ吐いて音也の手を握り締めた。
線路沿いの道は外灯も少なく、暗い。時折擦れ違う人も、ゆっくりと歩いている二人には脇目もくれず足早に通り過ぎていく。
音也がぎゅっとトキヤの手を握り返してきた。
「ねぇ、トキヤ」
「なんですか」
「今日はさ、驚いたけど、今度会ったらぶん殴ってやるんだ」
今更怒りが湧いてきたのか、音也がそんなことを言って握りこぶしを天に突き上げたので、笑う。
「その時は私にも一発、殴らせて下さい」
そう言ったトキヤの顔を見て、音也は「いいよ」と言って、おかしそうに笑った。
(20121130)