制服はまだ脱げない
「…俺でよければ、よろしくお願いします。」
と言ってくれたのだった。
正直、いまだに幸せな夢を見ているかのような気分だった。
だから、待ち合わせ場所で、約束通りに制服を着て現れた久々知くんを見たときも、僕はその姿が自分にとって都合のいい幻と思えた。
「…何間抜けな顔してるんですか?」
ぼーっとその姿に見惚れている僕に呆れたように、でも優しく微笑んでくれながら、久々知くんは話しかけてきた。見慣れた僕らの高校の制服を身にまとい、ゆっくりとこちらに近づいてくる姿は、二年間ずっと思い続けたその姿そのままだった。優等生の久々知くんらしく、きっちりとしめたボタンやネクタイも、何度も何度も、ひそかに目で追いかけていた姿そのままだった。
先日高校を卒業したばかりの久々知くんは、本当ならこの制服も着る必要なんてない。でも、「久々知くんと制服デートをしたい」という僕の密かな願望であったわがままに、優しい彼は付き合ってくれたのだ。
「こんな姿、三郎あたりに見られたら、からかわれちゃいそうですね。」
久々知くんはいたずら好きな友達の名前を口にしつつ笑う。「からかわれちゃいそう」だなんて言いつつも、その表情はとろけそうなほど穏やかで優しい。
そんな優しい顔しないで欲しい。
そんな顔されると…
「そんな顔されると…僕、うぬぼれちゃうよ…。」
ひとりごとのつもりで呟いた言葉は、自分で思ったより大きく響いたらしい。久々知くんの視線を感じそっとそちらを振り向くと、少し照れくさそうな笑みを浮かべた久々知くんと目があった。
「…うぬぼれちゃって、いいですよ…。」
小さな声で、でもはっきりとこちらに届いた呟きに、じんわりと心が温かくなるのを感じる。まだ信じられない今の幸せが、少しはっきりと形でこちらに伝わってきた。
それでも、あまりにも幸せすぎて、この春の優しいけどどこか霞がかった空気の上のように、それは実体をまだまだつかめないものだった。
学校前の名物となっている桜並木の下を歩く。桜のつぼみは、ここ最近の温かさのおかげか、だいぶ膨らみ、ほころび始めている。この様子なら、四月の入学式の頃には、もう満開となっているだろう。
「早く満開になってほしいですねぇ〜。お花見なんかもしてみたいですし。」
久々知くんのそんな言葉を聞いて、僕はさっきから密かに思っていたことを思い切って口にした。
「ねぇ、久々知くん…いつまで、敬語使うの?」
「…はい?」
突然の僕の言葉に、さすがに久々知くんも展開についていけないといった感じだ。僕はさらに言葉を続ける。
「ほら、僕たち一応、こ…恋人同士じゃん?それに久々知くんも高校卒業したんだし、敬語使わなくていいよ…って思って。」
僕は美容師である父親の仕事の関係で、17歳の春、日本の学校に高校一年生として編入してきた。そのため、当時16歳の高校二年生だった久々知くんにとって、「後輩なのに年上」というややこしい存在だった。僕は、年功序列の上下関係とか全然気にしないし、どうでもよかったのだけど、真面目な久々知くんはそうじゃなかったらしい。僕がいいと言ってもかたくなに、僕のことを「タカ丸さん」と呼び、敬語で話しかけてきたのだ。
…正直、寂しかった。なんだか距離を感じるというか、遠慮されているかのような気持ちになった。彼から気軽にタメ口で話しかけてもらえ、名前も呼び捨てしてもらえる、年下の同級生たちがとても羨ましかった。
でも、そんな彼の真面目さもまた愛おしかったし、何より変なことを言ってますます距離を感じるのが怖かったから、そんな彼の言動を改めるように強く言えなかった。
だが、彼も高校を卒業した。そして何より、僕らは晴れて恋人同士となったのだ。変な上下関係なんてもう気にする必要はない、対等な関係になれたのだ。
「急にそんなこと仰られましてもねぇ…。」
突然の僕の申し出に、久々知くんも戸惑いを隠せないようだ。
「でも、僕、実は敬語使われるの、なんだかさみしかったんだよ…だから、ね?」
ちょっとずるいかな、なんて思いつつも、少し甘えたようにお願いすれば、久々知くんの表情が、少し困ったような微笑みに変わった。よし!あとひと押しだ!
「せめて、「タカ丸さん」って呼び方だけでも変えてみない?」
僕のその言葉としつこいお願いに、さすがに久々知くんも根負けしたのか、少し戸惑いつつも口を開いた。
「…じゃあ、言いますよ…。「タカ丸。」」
瞬間、顔中に一気に熱が集まるのを感じた。
少し低めの、久々知くんの声が、僕の耳と脳にまっすぐに響いてきた。それは予想以上の破壊力で、一気に僕の体を貫き、侵していった。
顔が、体が、熱くて仕方ない。たまらず久々知くんの方を見ると、赤い顔を手で覆って立ち尽くしていた。
「〜〜〜!やっぱり急には無理ですよ!」
恥ずかしさや戸惑いを隠すかのように、久々知くんが叫ぶ。
その声は裏返っていて、動揺が隠し切れていない。
久々知くんの顔は耳たぶまで赤くなっていて、目は泳いでいる。…でもきっと、僕も同じような顔をしているのだろう。
「…やっぱり、急に変えるのは、無理だね…。っていうか熱くない?」
「…そうですよ!やっぱりいきなり変えるのはだめですよ…!って、やっぱり熱いですよね!?」
お互い、照れくささを隠すかのように、不自然に大きな声になってしまった。熱くなった体や顔を、この春の陽気のせいにして、久々知くんはネクタイを緩め、僕はワイシャツのボタンを一つあけた。
そんなお互いの姿がおかしくて、くすぐったくて、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
そう、急に焦って変えようとする必要はない。ゆっくり変わっていけばいいんだ.
僕たちがこれから共有できる時間はまだ始まったばかりで、これからたくさんあるのだから。
それでも、制服姿の久々知くんと一緒にこうして歩けるのは、これが最初で最後だろう。
だからこそ今この瞬間を、しっかり目に焼き付けようと――久々知くんのブレーザーの背中を見つめながら、そう、思った。
――願わくば、これからも最初で最後の瞬間を、たくさん彼と過ごせますように――。