あの夜の祈り
「……っ、!?」
理由を探せば、見つからないことはなかっただろう。
だけど、そうすることに一体何の意味がある?
下唇で拭った涙は、当たり前だが自分のそれと同じ味がした。
オレにとってはそんな何気ない事実の方が、随分と重い。
「お、いっ……青八木……?」
狼狽した声は顎の下から聞こえた。
どんな顔をしているのか少し気にはなる、その声音に嫌悪は含まれていないようだったので、まあいいか、とも思う。
やましさのようなものは感じなかった。どうして、と自分に問いかけなかったのも、オレに頭を抱え込まれたまま居心地悪そうに身動ぎする手嶋が本格的には抵抗しないのも多分そのせいだ。繰り返すうちに、それも消えた。
諦めたように脱力して、されるがまま緩く閉じられた瞼に。その裏側からまだ時折膨れ上がる、体温の塩水に。
眉間のあたりに残された湿りに、睫に落ちたままの水滴に、ただ唇を押し付けていく。
冷えて乾いた唇と、熱く濡れた目元が少しずつ似たものになっていく。手慣れているわけもない不器用なこれ、を、キスとか呼ぶのは違う気がした。他の言い方を思いつくわけでもないが。
「……くすぐってぇ」
「そうか」
「…………」
「手嶋」
「ん?」
「……嫌、か?」
「今訊くのかよ、ソレ」
ぶ、と噴き出す気配。首元にかかる暖かな吐息。そのまま、猫が喉を鳴らすようにして笑い続ける。
涙の気配が消えたわけじゃない。それでも、少なくとも、無理に繕った痛々しさは消えていた。
笑いと入り混じって苦しそうに震える体に安心を覚えるのも、妙な話だとは思う、けども。
「!」
不意に。
手嶋の腕が背に回された。強く引き寄せられて、というより手嶋に思い切り抱きつかれた格好になって、オレの視界にはまた手嶋の頭頂部しか見えなくなる。戸惑いながらまたぎこちなく背を撫で下ろすと、くすぐってぇ、くぐもった笑い声がして肩が揺れた。
「はは……ああ、ダメだ、畜生……止まんねえや。カッコ悪ぃ……」
「いい」
「良くねえよ……」
「いい。オレしかいない」
裏を返せばそれは、オレがいる、ということ。
流石に気恥ずかしくて口に出せなかった方の本心を、手嶋はどうやら正確に受け取ったらしい。
「…………」
ありがとな。そう聞こえた。二人しかいない部屋、両隣の間借り人は多分とっくに眠りに落ちて、それこそオレ以外には聞こえる筈のない状況で……まるで室内の空気を震わせることにさえ躊躇うような音量の声は。
「いい。オレたちは……チームだ」
それ以上の返事はなく、ただ背中に回された腕に少し力が入る。
夜は変わらずに暗く、山の初夏は肌寒く、朝が近づけば指先が少し凍えるほどになるだろう。
朝が来ても雨になるかもしれない。少なくとも昨日の雲行きでは、抜けるような晴天はきっと望めない。
それでも、いつか、朝は来るのだ。
それまでにせめて手嶋の目元の腫れが引いていればいい。
それまではせめて自分を許してやれたらいい。
腕の中の体温に薄い眠気を誘われながら、オレは。
意識が沈んでいく間際まで、そんなことを考えていた。