其の名は愛
「波江さーん、お腹減った。何か作ってー」
折原臨也のよく通る声が、彼の事務所の隅から隅へと響き渡る。昼時。すでに大陽は頭上真上から少し外れ、あとは堕ちるのを待つのみの時刻である。折原はその日、事務所の自分のデスクに張り付いて仕事をしていた。忙しかったわけではないが、しかしこまごましたことを、凝りに凝った仕上がりで片付けていたら時間が思ったよりも過ぎていた。朝食は一杯のフレッシュジュースだけだったことを思い出し、そこでようやっと腹がすいていると自覚したのだ。
「何かって……ここの冷蔵庫、まともな食材あるのかしら?」
ガチャリと、声に寄せられて黒髪の女性が扉を開けた。矢霧波江は、整理した書類のいくらかを折原のデスクへ投げるついでに、そう皮肉った。この家には家電などあっても用を成さないことの方が多く、それらはもはや現代技術と名のついたオブジェに等しい。折原のパソコンや酷使されている椅子はともかくとして、矢霧に与えられたパソコンはスペックの改造はされていたものの、型番自体は既に三年は経過した代物だったし、洗濯機や乾燥機だって使われたあとがほとんどない(掃除機だけは例外であったけれども)。
「この間、っていうか昨日だけど。ちょっと料理したからあるよ。炒飯作れるくらいの材料がね」
「つまり昨日、炒飯を作ったのね。分かったわ。待っていなさい。私も昼食に出ようと思っていたからついでだわ」
「今日の波江さんは優しいねえ」
「生卵かけるわよ」
「黙ります」
「そうしていなさい」
それからしばらくして、矢霧は二つの皿を盆に載せてキッチンから戻った。黒く長い髪はひとくくりにされて、袖は腕まくりされている。そのまま無言で折原のデスクへ盆を置くと、折原は心得たように自分の皿を取り、ありがとうと笑う。
「でもあなた、どうしてジャコが冷蔵庫にあるのかしら。入れたけれど」
「え? そりゃあ波江さん、愛でしょう」
「愛?」
「ほらさー。カルシウム不足の馬鹿がいるでしょう?」
皿は深く暗い緑色をしたつるりとしたそれで、白い米粒が卵で黄金色にコーティングされた炒飯がよく映える。かつんかつん、と白いれんげと皿のぶつかる音がする。湯気はゆらゆらと、食欲を促すにおいとともにそそり立つ。
「平和島静雄のこと? もしかして彼に作ったのかしら? あなたたち、気持ち悪いわね」
「君にだけは言われたくないけど。まあ、でも、分かるでしょ。愛だよ。ほら、栄養偏ったら駄目だろ? 君だって弟がカルシウム不足だったら入れない? 炒飯にジャコ」
「……そうね。それは愛だわ」
「理解頂けて嬉しいよ」
「でもあなたたち、すごく気持ち悪いわよ」
「ちなみにチャーシューも手作りだよ。シズちゃんってば、ファーストフードばっかりで良質なたんぱく質を摂らないから」
「……ほんとうに気持ち悪いわよ。私と誠二の愛と同列にしないで欲しいわ」
「波江さんの愛は美味しいと思うよ。炒飯ご馳走様」
からん、と皿の上にれんげが転がる。白い米粒ひとつ、皿の上には残らない整然さでそれは完食されていた。お粗末様。凛とした冷たい侮蔑の声が響く。誰に向けたかも分からない愛が、彼女の皿の上で冷めるのを待っていた。
2010.4.5