闇に降る雨
その冷たさが、眠りを妨げないように。
雨が降っていた。
暗闇に包まれた窓の外では街灯の灯った辺りにだけその姿を浮かび上がらせている。
滝のようにザァザァと降り注ぐ雨がうるさいくらいに地面や窓を叩き、その音にエドワードは、嵐の前触れかもしれないな、とぼんやりと考えた。
そういえばいつから降り出したのだろう。
よく覚えていなかった。
昼時から雲が広がって、機械鎧の付け根がだるく痛み出したからそのうち降るだろうとは思っていた。
(宿に入ったときはまだ降っていなかった気がする)
今隣に寝ている男が、黒い傘を杖のようにコツコツと何度か鳴らすのを聞いたから。
そこまで思い至ってエドワードは、シーツにくるまって寝息を立てている黒髪の男を見下ろした。綺麗に筋肉のついた背中が浅く上下している。
うつ伏せに眠る姿が子供みたいだ、そう思うと自然と笑みが零れた。
愛しさが熱さとなって胸にじんわり広がって、嬉しいような寂しいような、辛いような、複雑な気持ちだった。
幼い頃母親にそうされたように、その背中をそっと撫でてやろうかと手を伸ばしてハッとする。
カチャ。
冷たい音を立てて鈍く光る右腕、鉄の塊。
罪と、そして決意のその腕は、安らかな眠りに落ちている男に母のくれたような優しさを施すには相応しくない気がして、エドワードはゆっくりとその手を引いた。
手首から一本一本の指の関節まで精巧に作られた鋼の手。
まるで本物の手のように動くけれど、やはりそれは血も感覚も通わない鋼の手。
触れればひどく冷たいだろう。
この鉄の塊自身がその冷たさを感じることはないのに、それを押し付けるという事実が今は重かった。
そこまで考えて、ふとらしくない感傷に自嘲する。
(馬鹿か、俺は)
こういう天気の悪い日は好きではない。
機械鎧の付け根はシクシク痛むし、夜の雨は夢見が悪い。
早く止めばいいのにと窓に視線を向けるけれど、ザァザァと激しい音を立てて降る雨はまったく止みそうにない。
このまま降り続けば川の水位が危ないだろうし、もしかしたら汽車が遅れるかもしれない。そう思った瞬間、エドワードは走り出したいような衝動に駆られる。
早く、早く早く、早く行かなくては、早くこの男のそばを離れなくては。
そばにいたいなどと、考えるようになったら終わりだ。前にしか道はないのに、立ち止まる足場すらないのに、この時間を、この男とのひと時を、幸福だと感じてしまえば全てが終わる。
それを痛いほどに自覚しているから、雨の音がどうしようもなく焦燥を煽った。
走り出したい衝動を抑え、ただ黙ってシーツの端を掴む。
早く雨が止んで、夜が明ければいいのに。
そうしたらこの時間を日常の隅に追いやって、また走り出すことができるのに。
そのときを待つように窓に視線を向けたエドワードの目に、光が飛び込む。ザァーと水を撥ねる大きな音をさせながら、車がヘッドライトを向かいの建物や窓ガラスに反射させながら通り過ぎていった。
「ん…」
安普請の宿の窓が振動でガタガタ鳴るのに、ロイが眉をひそめる。それでも起きようとしないロイにエドワードは少し呆れた。
(ほんっと、よく寝てるよな)
無防備に寝顔を晒して昏々と睡眠を貪る姿に、本当に軍人なのかと疑いたくなる。
「寝首かかれても知らねーぞ」
日に焼けていない白い首筋をなぞり、微かな寝息に紛らせて呟く。自分がもしもこの男の刺客ならこのまま簡単に殺してしまえるだろうに。
(安心してるとか、冗談じゃない)
ずっとそばにいるわけじゃない、目的も違う、そんな相手を信用してよく眠れるものだ。
その信頼に心が締め付けられるような喜びを感じる自分が赦せない。
自分にあるのは、愚かを形にした空虚だけだ。
(カーテン、引いたほうがいいかな)
何も身にまとっていない我が身を振り返って、今更ながらにエドワードは思った。
そもそも、このカーテンは二人が部屋に入ったときから開いていたはずなのだ。とすれば鍵を掛けた瞬間、盛りがついたようにベッドにもつれ込んでからの一部始終は窓の外から丸見えだったのだろうか。
(まぁどうでもいいか)
本当にどうでもいいと思えた。
男に突っ込まれて、腰を振ってよがって、その全てを誰かに見られていたってどうでも良かった。
何よりカーテンを閉める余裕なんてなかったことを自覚している。
何ヶ月かぶりにイーストシティを訪れたエドワードはロイの勤務時間が終わるのを待って、お互いほとんど言葉も交わさず宿になだれ込んだ。
飢えた獣のような情事。
まるで世界中の時間がそこにしか流れていないかのような感覚。
罪も、宿命も忘れ去り、自身の根源に触れるかのような情事。
喰い合うようにキスをして、噛み付くように貪った。
ほとんど慣らしもしないで足を開いて、激しくこすり上げられる度に何度も腹に吐き出した。
ただこの男が愛しくて、空いた隙間を埋めたくて、何度も何度も体を繋げた。
そんな激しい情交も、過ぎ去ればただ今は熱の残滓もおぼろげだ。お互いのこと以外を忘れられるのは一瞬で、熱が過ぎれば罪も宿命も生々しく身のうちにあることを思い知って、それらを忘れて貪ったことに罪悪感すら感じる。
なのにこの浅ましい共食いをやめることができない。
いつだってそうだ。
イーストシティに来るたびに、ただロイが欲しくてわけがわからなくなる。
したくてしたくて、それしか考えられなくなる。
本能のままに貪って、しつくして、全てが終わって我に返る。
こんな感情、赦されないのに。
自己嫌悪を繰り返して、それでも手放せない自分の愚かに絶望する。
弟を裏切って、ただ与えられる愛情を貪るだけで。
(俺はアンタに何も返せないのに)
こんなのは甘えだろうか。
この男はそれを分かった上で自分を抱くのだろうか。
罪も宿命も溶かすほどの熱でどろどろに甘やかして、吐き出させて。
そうしてただ愛情だけを与えられた後に残るものの残酷さを知っているのだろうか。
離れることが辛いのに、そう思う感情の後ろめたさがまとわりついて離れない。
弟が何よりも大事、アルのためなら何だってする、そう繰り返す言葉は真実なのに、空々しさばかりが浮き彫りのなるのは、この男がそれを赦すから。
自分のことは二の次でいいと笑う優しさに、腹を立てる自分が間違っているのだ。
ただ奪うばかりで、ぬくもりも与えられない右腕の空虚が、今はただ悲しかった。
子供のように眠る傷だらけの男に、いつか母がくれたようなぬくもりを返せるだろうか。
そう祈るように伸ばした鋼の指先が、男の肌に触れる寸前で鈍く光って、エドワードは絶望した。
ああそうだ。
返せるわけがないのだ。
自分がこの男に抱く感情は夜に降る雨と同じ。
自分が自分である限り、‘いつか’なんて来はしない。
こんな冷たさは、ただこのつかの間の眠りを妨げるだけ。
安らぎなど与えられはしない。
分かっているのに、手放せない。
その愚かを、夜に溶けた雨が嗤う。
(だから、もう願い続けるしかないんだろ?)
雨が降っていた。
暗闇に包まれた窓の外では街灯の灯った辺りにだけその姿を浮かび上がらせている。
滝のようにザァザァと降り注ぐ雨がうるさいくらいに地面や窓を叩き、その音にエドワードは、嵐の前触れかもしれないな、とぼんやりと考えた。
そういえばいつから降り出したのだろう。
よく覚えていなかった。
昼時から雲が広がって、機械鎧の付け根がだるく痛み出したからそのうち降るだろうとは思っていた。
(宿に入ったときはまだ降っていなかった気がする)
今隣に寝ている男が、黒い傘を杖のようにコツコツと何度か鳴らすのを聞いたから。
そこまで思い至ってエドワードは、シーツにくるまって寝息を立てている黒髪の男を見下ろした。綺麗に筋肉のついた背中が浅く上下している。
うつ伏せに眠る姿が子供みたいだ、そう思うと自然と笑みが零れた。
愛しさが熱さとなって胸にじんわり広がって、嬉しいような寂しいような、辛いような、複雑な気持ちだった。
幼い頃母親にそうされたように、その背中をそっと撫でてやろうかと手を伸ばしてハッとする。
カチャ。
冷たい音を立てて鈍く光る右腕、鉄の塊。
罪と、そして決意のその腕は、安らかな眠りに落ちている男に母のくれたような優しさを施すには相応しくない気がして、エドワードはゆっくりとその手を引いた。
手首から一本一本の指の関節まで精巧に作られた鋼の手。
まるで本物の手のように動くけれど、やはりそれは血も感覚も通わない鋼の手。
触れればひどく冷たいだろう。
この鉄の塊自身がその冷たさを感じることはないのに、それを押し付けるという事実が今は重かった。
そこまで考えて、ふとらしくない感傷に自嘲する。
(馬鹿か、俺は)
こういう天気の悪い日は好きではない。
機械鎧の付け根はシクシク痛むし、夜の雨は夢見が悪い。
早く止めばいいのにと窓に視線を向けるけれど、ザァザァと激しい音を立てて降る雨はまったく止みそうにない。
このまま降り続けば川の水位が危ないだろうし、もしかしたら汽車が遅れるかもしれない。そう思った瞬間、エドワードは走り出したいような衝動に駆られる。
早く、早く早く、早く行かなくては、早くこの男のそばを離れなくては。
そばにいたいなどと、考えるようになったら終わりだ。前にしか道はないのに、立ち止まる足場すらないのに、この時間を、この男とのひと時を、幸福だと感じてしまえば全てが終わる。
それを痛いほどに自覚しているから、雨の音がどうしようもなく焦燥を煽った。
走り出したい衝動を抑え、ただ黙ってシーツの端を掴む。
早く雨が止んで、夜が明ければいいのに。
そうしたらこの時間を日常の隅に追いやって、また走り出すことができるのに。
そのときを待つように窓に視線を向けたエドワードの目に、光が飛び込む。ザァーと水を撥ねる大きな音をさせながら、車がヘッドライトを向かいの建物や窓ガラスに反射させながら通り過ぎていった。
「ん…」
安普請の宿の窓が振動でガタガタ鳴るのに、ロイが眉をひそめる。それでも起きようとしないロイにエドワードは少し呆れた。
(ほんっと、よく寝てるよな)
無防備に寝顔を晒して昏々と睡眠を貪る姿に、本当に軍人なのかと疑いたくなる。
「寝首かかれても知らねーぞ」
日に焼けていない白い首筋をなぞり、微かな寝息に紛らせて呟く。自分がもしもこの男の刺客ならこのまま簡単に殺してしまえるだろうに。
(安心してるとか、冗談じゃない)
ずっとそばにいるわけじゃない、目的も違う、そんな相手を信用してよく眠れるものだ。
その信頼に心が締め付けられるような喜びを感じる自分が赦せない。
自分にあるのは、愚かを形にした空虚だけだ。
(カーテン、引いたほうがいいかな)
何も身にまとっていない我が身を振り返って、今更ながらにエドワードは思った。
そもそも、このカーテンは二人が部屋に入ったときから開いていたはずなのだ。とすれば鍵を掛けた瞬間、盛りがついたようにベッドにもつれ込んでからの一部始終は窓の外から丸見えだったのだろうか。
(まぁどうでもいいか)
本当にどうでもいいと思えた。
男に突っ込まれて、腰を振ってよがって、その全てを誰かに見られていたってどうでも良かった。
何よりカーテンを閉める余裕なんてなかったことを自覚している。
何ヶ月かぶりにイーストシティを訪れたエドワードはロイの勤務時間が終わるのを待って、お互いほとんど言葉も交わさず宿になだれ込んだ。
飢えた獣のような情事。
まるで世界中の時間がそこにしか流れていないかのような感覚。
罪も、宿命も忘れ去り、自身の根源に触れるかのような情事。
喰い合うようにキスをして、噛み付くように貪った。
ほとんど慣らしもしないで足を開いて、激しくこすり上げられる度に何度も腹に吐き出した。
ただこの男が愛しくて、空いた隙間を埋めたくて、何度も何度も体を繋げた。
そんな激しい情交も、過ぎ去ればただ今は熱の残滓もおぼろげだ。お互いのこと以外を忘れられるのは一瞬で、熱が過ぎれば罪も宿命も生々しく身のうちにあることを思い知って、それらを忘れて貪ったことに罪悪感すら感じる。
なのにこの浅ましい共食いをやめることができない。
いつだってそうだ。
イーストシティに来るたびに、ただロイが欲しくてわけがわからなくなる。
したくてしたくて、それしか考えられなくなる。
本能のままに貪って、しつくして、全てが終わって我に返る。
こんな感情、赦されないのに。
自己嫌悪を繰り返して、それでも手放せない自分の愚かに絶望する。
弟を裏切って、ただ与えられる愛情を貪るだけで。
(俺はアンタに何も返せないのに)
こんなのは甘えだろうか。
この男はそれを分かった上で自分を抱くのだろうか。
罪も宿命も溶かすほどの熱でどろどろに甘やかして、吐き出させて。
そうしてただ愛情だけを与えられた後に残るものの残酷さを知っているのだろうか。
離れることが辛いのに、そう思う感情の後ろめたさがまとわりついて離れない。
弟が何よりも大事、アルのためなら何だってする、そう繰り返す言葉は真実なのに、空々しさばかりが浮き彫りのなるのは、この男がそれを赦すから。
自分のことは二の次でいいと笑う優しさに、腹を立てる自分が間違っているのだ。
ただ奪うばかりで、ぬくもりも与えられない右腕の空虚が、今はただ悲しかった。
子供のように眠る傷だらけの男に、いつか母がくれたようなぬくもりを返せるだろうか。
そう祈るように伸ばした鋼の指先が、男の肌に触れる寸前で鈍く光って、エドワードは絶望した。
ああそうだ。
返せるわけがないのだ。
自分がこの男に抱く感情は夜に降る雨と同じ。
自分が自分である限り、‘いつか’なんて来はしない。
こんな冷たさは、ただこのつかの間の眠りを妨げるだけ。
安らぎなど与えられはしない。
分かっているのに、手放せない。
その愚かを、夜に溶けた雨が嗤う。
(だから、もう願い続けるしかないんだろ?)