船長の目
幼い声に振り向けば、小柄なトナカイが小走りで甲板の上を横切るのが見えた。
「男部屋にいないと思ったら、こんなとこで…ああっ、また包帯外してる! 何度言っても言うこときかねえな。どうせ寝るならベッドの方が絶対楽なのに」
ぶつくさと呟き、起こそうと蹄で肩を揺するけれど、それはとても優しい仕草だ。
「チョッパー」
呼ばれて振り向くトナカイに笑い掛けた。
「寝かせといてくれねぇかな、そのまま」
眉間がみるみる不機嫌そうに寄せられていく様子が、大怪我の剣士を心から案じている心情をすっかり表していて、つい口許が綻ぶ。
「おれが見張っとくからさ」
「…ルフィはゾロに甘いから信用ならねえ」
「失敬だな。甘くなんかねえぞ」
「あっ、ここの包帯も外してるっ! 困った怪我人だっ」
動かしにくいからという理由で固定用の包帯をさっさと外してしまうのは、今に始まったことでもないと分かっていても、ドクターチョッパーの鼻息は少し荒くなった。
背中のリュックから新しい包帯を取りだし、器用に手早く巻き直す。その間も、ゾロは目を閉じたまま静かな寝息を立てている。
たまに、狸寝入りなんじゃないのか? と疑うチョッパーだが、これまで彼が、どんな治療も全く拒まず受け入れてきたことを思うと、ま、いいか、という気持ちになった。
「これでよし、と」
呟いてリュックを背負い直し、一度も目を開かなかった剣士の眼前に青ッ鼻を突き出す。
「ゾロはもともと頑丈だけど、生身だってこと忘れたらダメだぞ。無理や無茶は鍛練じゃないんだからなっ」
ふが、と、返事まがいの寝息が返る。船医は短く諦めの息を吐いて、船長を見た。
「じゃ、よろしくな!」
「おう、任せとけ!」
サニーのたてがみに腰掛け、両足をぶらぶらさせて、ルフィはまっすぐに、寝こけている剣士を見つめる。
「なに。寝てるの?」
甲板に出てきた航海士が、進行方向に珍しく背を向けている船長の視線を追いかけて口を開く。
やれやれと肩を落として呆れ気味のため息をついた。
「起こすなよ、ナミ。おれが見張ってんだから」
寝てるの見張ってどうすんのよ、と軽い突っ込みを入れて、口角を少し上げた。
「起こさないわよ。ゾロが寝てるってことは、起きなきゃいけないような危険は近くにないってことでしょ。それにしても…、つくづく頑丈な男よね」
柵に凭れて、呆れと感心がないまぜになった言葉を吐息と共にこぼす。
「ねえ、ルフィ」
「何だ?」
「何があったのか、聞いたの?」
「何がだ?」
首を真横に倒す船長に、言葉を追加する。
「ゾロと、くまとかいうヤツと、何があったのか。サンジくん知ってそうなのに、訊いても教えてくれないのよ。何か聞いてる?」
「いんや」
「気にならないの?」
眉を潜めるナミだが、ルフィはけろりとしたものだ。
「別に。本人が何もなかった、問題ねェっつんだから、何もないんだ」
「それでいいわけ?」
いつもなら荒くれどもと飲み比べまでするほど酒豪のナミが、スリラーバークで開かれた宴では、広間の一角に横たえられたゾロの側から離れようとしなかった。
どんな深手を負ったとしても、美味い酒には目のない男だのに、ピクリとも反応しなかったことが、無意識に不安を煽ったのだろう。
この、ふてぶてしい剣士をここまで痛め付ける七武会の存在が、そら恐ろしい。
だが、ルフィは、短くああ、と答えるのみ。
常は鬱陶しいほど暑苦しい船長がこともなげに口にした冷静な口調と返答は、航海士の気分を逆撫でしたが。
「ナミ」
「…なによ」
「ゾロはな、強ェんだ」
「…知ってるわよ、そんなこと」
「いーや。分かってねェ」
風に浮き上がりそうになった麦わら帽子を片手で抑え、ぶら下げていた両足を曲げると草履の裏をぱんと合わせる。
口許には笑みすら浮かべて。
「ゾロは、強ェぞ。もっともっと強くなる。もっと、もっとだ」
「……」
「ゾロがそう決めたんだ。世界一になるまで、もう敗けねえって。だからおれは、見てるんだ」
そこで、ふと、ナミは気付く。
「ルフィ、あんた…」
「ゾロも、おれを見てる。おれが、海賊王になんのを見張ってんだ。だから余計な心配すんな、ナミ」
言って得意げに笑う船長を見たナミは片手で顔を覆った。
「……はーーーー」
深い溜息を吐き、肩の力をそっと抜く。
彼らは、想像もつかないところで結び付いている。
些細なことで本気の大喧嘩をするくせに、命のやり取りの場では示し合わせたように動く。
安穏とした時間を過ごしているように見えて、心の底では強さに飢えていることを互いに感じている。
「ほんっと、あんたたちって似てる」
「んん?」
どこがだ? 全然似てねぇぞ、と、唇を尖らせて呟く船長に向かって笑顔を見せた彼女は、自分の胸を、心臓のあたりを自らの拳で軽く叩く。
「ここ」
「胸?」
「気持ち、心、…うーん。なんて言ったらいいのかしらね」
魂、なんて言っても、ルフィには分からないだろう。けれど、言葉が見つからなくても、きっと彼らには分かっているんじゃないかとナミは思う。
「ま、どうだっていいか」
「! なんだお前、ちゃんと説明しろ」
「ルフィ」
「ん?」
「死んじゃ駄目よ」
「…」
なにいってんだ。おれがしぬわけねぇだろ
そんな言葉は返ってこなかった。
船長は、神妙な、それでいて不敵な表情で「あぁ」、と答える。
「おれが死んだりしたら、ゾロから殺される」
そう告げた眼差しは、少しもふざけてはいない。
海賊なのだから、戦いの最中に命を落とす覚悟くらいあるだろう。それなのに、それすら許そうとしない覚悟だって責任だって約束だって、ずっと抱え続けている。
おそらく、出会ったときから。
見つめ続けることが辛くなるような視線から目を逸らして、ナミは、重くなりかけた空気を払う。
「あんたたちがそう簡単に死んだりするはずないか。あ。ゾロが起きたら言っといて。寝るならベッドで寝ろって」
「ん。わかった」
相変わらず、おとなしく眠りを貪る剣士を一瞥し、ルフィは再びサニーのたてがみの上に立つ。
まっすぐに前を向き、船の行く先を揺るがず見据える。
「!」
ふと、背中に震えが走った。
反射のように振り返ればそこには、先ほどと同じ格好で微動だにしない男が眠っているだけ。
「…強ぇな、ゾロは」
ぽつりと呟いた後は口元を引き締め、好戦的な瞳を前へ向け。
「おれは、もっと強くなる…!」
様々な強さ、しなやかさ、したたかさを携え、目指すは海賊の高み、『海賊王』。
船長の目は今日も健やかに前を向き前を見つめ、輝いている。