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「SURREAL-プロトタイプ」

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曇天の下、眼前には荒れる海原が広がっていた。
 波が幾つも岸壁に打ち上げては、その波頭が儚く崩れてゆく。
 合鍵を渡されているその別荘にひとり立ち寄り、急ぎはしないが、と言う但し書きの元、依頼されていた調査報告書を書斎の机に置いた。
 聖唐人は、自分の顔色が悪くなっているだろうことに気付いていた。
 何年も、『北島マヤ』、そのカテゴリの報告書を積み重ねながら、彼と彼女の間を取り持つ道化を演じている自分を思った。


    自分など、とうに死んでいる。
    だから、どうでもいい。
    私に、望むものは何も無い。

 そう思い込んでいた。自己を洗脳するつもりで。

    手に入れたいわけじゃない。
    欲しているわけじゃない。
    ただ、その場所には。


 テラスに出る。塩を含んだ湿った海風が髪を荒々しくなぶってゆく。
 思いのほか冷たい空気に、自分の倦んだ脳が正気に戻るのではないかと思ったが、無駄だったようだ。
 北島マヤは愛らしい。
その純粋さ、ひたむきさ、素直さは自分には欠片もないもので、とてもまぶしく見えた。
 彼女に非はない。もしかすると、自分も彼女のことを、心の扉の奥に入れてしまいそうだった。
 そうしないのは、ひたすらに彼が彼女を愛しているから。
 彼女も、間接的にはとは言え、彼を愛しているから。
 紫のバラのアーチを抜け、彼女と彼が結ばれれば、本当にそれでいいのだと思う。
 彼女の笑顔を思うと、普段は凍らせている感情が、淡雪のように溶ける。
 しかし、その笑顔は彼が最も求めているもの。
 

 しかし、聖はその冷静な意識の中で、自覚していた。当て所ない自問自答を続ける。
 望むものは何も無い。
 決して手に入れたい、などという欲望ではない。

 ただの操り人形風情が、と自嘲する。海風がいよいよもって荒々しくなる。
 テラスのウッドデッキが湿ってゆく、雨が降りそうだ。
 ……雨に打たれたい気分で、釈然としない思いが、くすぶっている。


 それは速水親子に人生の窮地を助けられてからのことだった。
 引き合わされてからも、何も言わない、何も自分のことなど話さない。
 ただ影となり、表沙汰には出来ない汚れ仕事を淡々と片付けてゆく。
 どれだけその輝かしい存在に憧れても、感情は不必要だった。
 彼のもとで生かされている――生きている、それだけで充分だった。
 自分の半生など塵芥のようなもので、 彼のような道を歩んできた人間には、理解も出来ないだろうし、想像も出来ないだろう――と、決めてかかっていた。
 ――憐れまれているのだ、と。


 ビジネス然としたやりとりを続ける内に、その何もかも恵まれている男は言った。
「……聖、気に障ったら悪いんだが、その右目はどうしたんだ?」
 興信所の調査などで、自分の生い立ちなぞ知っていように、彼はそれを尋ねてきた。
 今思えば、きっと話のきっかけを掴みたかったのだろうけれど。
「母親に、瞼を切られました」
 聖はそうとだけ答えると、相手は無言の侭立ち上がりコーヒーを淹れた。
大きく南に面している窓は夏の日差しを存分に受取り、不穏な話の矛先とは全く相容れない、刺すような眩しい太陽が聖唐人と速水真澄を照らしていた。
真澄が、コーヒーを聖の前に置いた。
「ありがとうございます」
 聖は、らしくない真澄のサービスに、うろたえがちに礼を言う。
 御曹司が自分風情に、ボーイの真似なんて、どういう風の吹き回しだ?
 普段のように向かい合わせにソファに腰掛けながら、いつもは感情を交えない『仕事』の話しかしないテーブルの上で、違う物語が幕を開けた。

 コーヒーをすすったまま俯いていた真澄の頤が上を向いた。
 そこには、いつもの冷血漢ではなく心持ち不安げな、少年の色があった。
 聖は右の瞼を引きつらせながらも、驚いてほんの一瞬、目を見開いた。
 色素の薄い、真澄の名前の通りの瞳が、そこに在った。

「お前に、ずっと話したいと、思っていたんだ。これは所詮、おれの心の弱さかもしれない。あの子に惹かれるのも、その埋め合わせなのかもしれない。でも、おれはこの話をマヤにすることは……無いだろう」

 お前にだけは、話しておきたかったんだ――そう前置きをして真澄が口にしたのは、『藤村真澄』が『速水真澄』になり、『速水真澄』の仮面を作り上げるまでの、長い、沈痛な物語だった。
 気付くと陽はに西に傾き、幻のような余熱を遺しながら、空を水面を赤々と炎のように彩っている。
 真澄の心の中に、あの日の火事がまだ、痛々しく燃えさかっているように。
「おれも馬鹿だろう……? 紅天女も親父への復讐でしかないんだ。こんな人間がお前の上司なんだよ、聖」
 そして、真澄は非常に人間臭く……皮肉と悲しい自嘲の微笑を浮かべた。
 聖は薄い汗をかいた頬に、真澄の嘆息がかかったような気がした。
 真澄の双眸に、ややとして暗い影が宿った。今までに見たことのない表情だった。
 弱さを隠さない、それでいて強い人間の貌だった。

    ――彼は眩しい光の中で濃い闇を抱えている――
    聖の知る限り今日までその闇を知る者はいない。
    ――そして尚、自分を諦めてはいない――

 打ち明けてくれたその壮絶な体験と、それに伴う心の傷と絶望……
 同情して貰いたいわけじゃない、ただその瑕疵が在る、ということを、伝えたかった、と。
「同情して貰っても、何の役にも立たないからな」
 真澄は言って、笑った。
 聖は、声も出ず、その笑顔を見詰めた。

 聖は、真澄も、自分と変わらない人間だということに気付いた。
 しかし――彼は、純粋すぎる、脆すぎる。
 幾らも修羅場を越えてきた聖には、判ってしまった。
 黄昏と共に、真澄の表情は憂えていった。
 黄昏と共に、宵の明星が昇る。
 その美しい存在。命を助けられたとかいう瑣末な事はどうでもいい。 
 ただ、現時点で彼の存在の一番近いところに居るのは自分なのだと、
聖は無くし掛けた自尊心と、熱情が心の中に走っているのを感じていた。
――感情を殺しかけた闇の中で、たった一つ光るもの。


 この鉄壁の輝ける存在が――あくどい手段も辞さない会社社長ではありながら――、表面に作っている仮面と、その裏の素顔。
 闇が訪れ、壊れてゆく家庭、明滅する命、冥い海原。
 聖の脳裏をかつての記憶が掠めていった。
 そして今、黄昏と共に、宵の明星が昇る。
 太陽の残滓が他の星星をかき消す中で、たった一つ光るもの。
 闇の中で光を失わぬもの。
 その仮面は役者の被る仮面より危ういバランスのもと、保たれているのだと。

 同性なのは重々承知している。
 それは異端だということも。
 共犯者めいた真澄の告白は、聖を彼に縛り付けるには充分だった。
 聖の中に湧き上がった、この忘れかけていた感情を表現するには、恋慕としか言いようが無い。
 決して得られない星を望む。


 そして時は過ぎ、あの日のような眩しい海を背後に、真澄は、無知と言う罪のまま、聖にそれを告げる。