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軽い音を立てて、ハードカバーの表紙を閉じる。
青い空と純白の雲に覆われた装丁が美しい。
 
顔を上げれば、見慣れた風景が流れていく。
車両の連結部が時折軋んで、
規則的な心地良い振動、
窓から差し込む西日。
 
こんな風に夕焼けが美しい翌日はさて、晴れるのだったか、降るものだったか。
 
帰宅したらもう一度はじめから本の扉を開きにかかろう。
ごく身近に彼以上の…いや、彼など及びもつかない本の虫が居るため誰に気づかれた試しもないが、常に最低一冊の文庫本を持ち歩く程度には、読書とは彼にとって数少ない趣味の一つだった。
けれど今日に限っては、読み終わったばかりの本の内容が欠片も頭に残っていない。彼は苦笑する。一度読んだきり本棚にしまいこんでは失礼だと思うほど気に入りの作家の作品だというのに、な。
 
その原因については考えるまでもない。できるだけ肩から下を動かさぬよう首を巡らせれば、左半身にかかる緩い重みの正体がくうくうと寝息を立てていた。
『彼』が、彼に対してこんなにも無防備な顔を見せることは滅多にない。自分の構いすぎが元凶とわかってはいるが、情れなくされる日常に心は倦んで行くものだ…澱の積もっていくようなその心はそして、狙ってでもいるようなタイミングで矢張り『彼』によって掬われていくのだけれど。
或いはそれも、『彼女』の無意識なのかも知れないとふと思う。
彼の不調に気づいた彼女が、その回復を願ったとしたら。具体的な方法ですらない、ただ純粋な願いだけでもって『彼』の生理現象をほんの少しだけ歪ませて、下校途中の電車の中で耐え難い睡魔に襲わせたのだとしても彼は別段驚かない。自分の存在が『彼女』の中で、その程度には大きい自覚がある。
 
電車が揺れる。
左から右へ、かかる重力は速度の減少に伴う慣性だ。
その拍子に、彼に左肩に預けられていた『彼』の頭ががくりとずれ落ちて彼の胸元で停止する。
傾きすぎた上体の角度にも目を覚ます気配もなく、そのままヨダレでも垂らしそうな平和な顔で眠り続ける『彼』に、彼は少しだけ微笑んだ。
 
空気が抜け、開いたドアから夏の空気。
少しだけ湿って土埃の匂いが混ざる、それを誰かが雨の匂いと言った。
人の身体を八割方枕にして、『彼』は目覚めない。
再び空気の音、金属とガラスの箱に隔絶される車内。
熱を持った風は車内の冷房に駆逐されていく。
 
見慣れた駅名が通り過ぎて、ただそれだけで窓の外に広がる世界は面白いほど姿を変えた。そういえばこの路線の終着点は何処だったろう。考えてみれば土地の名前ばかりは知っていても、この駅より向こうに足を踏み入れた事が彼にはない。
 
 
…目を覚まさなかった、貴方の責任ですよ。
 
 
心の中で言い訳をして、見知らぬ景色に目を向けた。
ぬるい冷房の風に紛れて雨の匂いがする。
 
こんな風に夕焼けが美しいから、きっと明日は降るのだろう。
今日は昨日と違う日に、明日は今日と違う日になるのだろう。
時間の過ぎるのをこんなにも惜しく感じたのはきっと初めてだった。
時間座標の先にある事象をこんなにも待ち遠しく感じたのもまた、きっと初めてだった。
作品名: 作家名:蓑虫