唇
おそらくは、彼の不用意な一言だったのだろう。ごく普通の『一般人』である彼が、自覚なしに彼女達や自分の地雷を踏み抜く発言をするのはある意味でいつものことであり仕方のない事でもある。
今日はたまたまそれが自分にあたった。
普段ならば、ただそれだけのことだ。
自分は穏やかに彼を窘め、彼は素直に失言を詫びて、それで終る話だった、
筈だった。
それがどうして、こうなったのか。
柔らかに押し返す弾力を、両手のひらに。
夏の気温に少し湿った熱を、唇に。
どこか現実味が薄いそれを感じていた。
薄い肉の向こうに硬質な感触。未発達な体躯は華奢と言ってよく、けれど同年代の少女と違い触れれば壊れてしまうような脆さはそこにはない。
乱雑に散らかった机から、よくわからない超常現象だか超能力だかを特集しているらしい雑誌がまた一冊滑り落ちて音を立てた。それすら耳に入っていないのだろうか、その机の上に背中を押し付けられ、両肩を自分に押さえ込まれている本人は、相変わらずぽかんとした表情で自分を見上げている。
少しだけ濡れたその唇が、震えて、動いて、
「…こ、」
色が、音が、現実が、戻ってくる。
触れる体温や緩く上下する薄い胸板が、急速に、酷く、生々しく。
「…………っ」
逃げるように飛び退った。自分のした事を漸く理解した、ためではなく。
自分が何をしようとしていたのか、どうしたかったか、それを漸く理解した、ためだ。
束縛する手が離れても、彼は逃げるでもなく、自分に怒りをぶつけるでもない。
ゆるゆると身体を起こし、殆ど自動的な動きで乱れた制服の襟元を直す。何かに気づいたように口元を探るその手が、一筋零れた唾液を拭う姿が、辿るように唇をなぞる指先が。
…ああ、
吐き気が、する。
自分の望みとはつまりこういうことか。
自分の望みとはつまりこういうことだ。
彼が羨ましいと思った。彼女に信頼される彼を妬んだ。
彼女が羨ましいと思った。彼に許容される彼女を妬んだ。
――けれど望んだものは、彼女の信頼ではなく。
「…すみ、ません」
搾り出した声は、掠れていたと思う。
…叶うことならこんな形で知りたくなかった。
鞄を掴んで踵を返す。こいずみ、と呼ぶ声が微かに聞こえた。
部室の扉を叩きつけるように閉ざして、ひたすらに駆けた。
震える手で携帯を取り出し、慣れた番号を呼び出して、
校門に着くと同時に漆黒のタクシーに乗り込んだ。
詮索をしない運転手の後ろ座席で、少しだけ泣いた。
…彼女を信じるのとおなじように
彼女達を許容するのとおなじように
ねえ、
あなたは、
僕を、