夏
現状が把握できず、俺は数度目を瞬かせる。ここはどこだ?
体にはどうやら薄手のブランケットがかけられているようで、身動ぎすれば体の下でスプリングがぎしりと音を立てる。背中に違和感を感じるのは、どうやら枕が頭の下ではなく腰のあたりに据えられているせいだろう。ってこんな事はどうでもいい。ここはどこで、そして俺はどうしてこんなところに。
起き上がって周囲を確認しようとするが、上半身をベッドの上に起こした時点で強烈な眩暈に襲われて、俺は再び倒れこむようにマットレスに沈む。派手に軋むスプリングに、呼ばれたようなタイミングでドアの開く音がした。
「…目が覚めましたか」
どこかで聞いたことのある声。というよりはもう聞き慣れすぎた声が普段とは少し違う響きで俺の名前を呼ぶ。気遣いを含んだその声が耳に届いた事で、不覚にも安堵して全身から力が抜けたなんて声の主本人には絶対に言ってやる気はないが、人の顔を覗き込んで微笑んだ古泉の表情を見るに、言う必要もない程度には思ったことが顔に出ていたらしい。知らず頭に血が上る俺の、赤くなった顔の理由をどう捕らえたのか古泉は心配そうにニヤケ面を曇らせて俺の額に白い手を添えてきた。
「もう少し休まれた方が良さそうですね。…失礼、氷嚢を変えます」
言葉と同時に、古泉の手が今度は後頭部に添えられた。
頭を持ち上げるぐらい人の手を借りる必要もない、と抗議するよりも素早く、首筋の後ろに当てられていた生温い水袋が取り去られて、替えの氷嚢があてがわれる。冷気に一瞬肩を竦めるが、慣れてしまえばそれは随分と心地良い冷たさだった。目を細めて氷に懐く俺の頭を、一撫でして離れる男の手。
「…何が起きたんだ、俺に」
「覚えていませんか?」
逆に問いかけられて小さく頷いた。未だ頭の中心部が覚醒しきっていない気がする。
あやふやな記憶を辿ってみても、確かなのは俺が自分の意思でここに来た訳ではない事ぐらいか。古泉の様子を見るに、おそらくここはこいつの家とかそんな感じの場所なのだろうが、少なくとも俺はここに来た試しはないし、来る予定もなかったと思う。
今日は確か、今日も確か、朝っぱらからハルヒの奴に呼び出されて延々自転車をこがされてそしてハルヒの求めるような『成果』など当然挙げられないまま帰路についた筈だ。古泉と俺はSOS団の五人の中では比較的家が近い方らしく、いきおい同じ道を行く事になり、そしてその辺りで俺の記憶は途絶え、気がついたらここでノビていた。
「熱射病ですよ」
「……」
やっぱりか。まあ状況的に考えられるオチはそんなところだろうと思ってはいたが、それにしても熱射病で意識まで無くしたのははじめての経験だ。そういえば散々走り回らされている間、若干妙な眩暈を感じていたような気はする。
ぼんやりと思いつくままを口にすれば、笑みを消した古泉が小さく首を振った。
「顔色が悪いようでしたので、あえてご一緒させていただきましたが …途中から会話が成立しなくなりましてね。うちで休んで行かれることを提案したのと同時に倒れられたんです」
流石に肝が冷えましたよ、と続ける古泉の淡い色合いの目には心底からの憂いと僅かながらの怒りが浮かんでいて、その辺りの記憶が完璧にない俺としては物理的に古泉にかけた迷惑よりも、たった今そんな顔をさせてしまった事に胸が痛む。
…これもまた本人に面と向かって言うつもりは断じてないが、俺は古泉のこんな顔に随分と弱い。素の感情をあまり感情を表に出さない(出せない)奴だから、尚更こんな風にはっきりと汲み取れる程表情があらわれる時というのは『余程』の場合に限られると知っている。
無茶をやらかす団長様やら『機関』のしがらみやらの間にあって何かと板挟みになることが多いらしい古泉に、これ以上負担を強いるのは俺としては本位ではなかったというのに。
「お前がここまで運んだのか」
「ええ。流石に自転車までは抱えられませんでしたので、道端に置いてきてしまいました。後で取りに行かなければなりませんね」
「…すまん」
素直に謝れば、何故ですか?と首を傾げる。その顔には既にいつもの飄々とした笑顔が戻っていてまた僅かに心臓が軋んだ。なんでこう、こういう時に上手い事出来ないんだろうな俺って奴は。
「今回ばかりは、気にしないでください、とは言えませんね」
「ああ、悪かったと思ってる。…迷惑かけたな」
「…そういう意味ではないのですが」
ああ、分かってる。お前の言いたいことは分かってるよ、古泉。
この炎天下に大して体格の変わらない人間一人を運んでベッドに寝かせ、襟元を緩めて首に氷嚢をあてがって、お前が怒っているのは俺のためにかけさせられたそんな手間の為ではないことぐらい。
非は明らかに、意図的に古泉の気遣いを信頼しようとしない俺にあって、心配した相手にこんな的外れな謝り方をされたなら俺ならまず小一時間の説教タイムを開始するだろうというのに、真意を量り難い顔をした古泉はため息を一つ吐いただけでそれ以上何の追及もしようとはしなかった。
気まずい沈黙が場に落ちて、思い出すことと言えば先日こいつにしてやられた、ふざけた行動のことばかりだ。ってか一応あれがファーストキスってやつだったんだが、俺。
きっと俺も古泉も、この猛暑続きの日々に頭のどこかをやられてしまった。
何が正しくて何が間違いなのか、判断する機能を失ってしまったのだ。
そうでなければこの飄々とした男があんな真似をする筈がないし、誓って同性愛趣味の持ち合わせなどない俺が、いくらあんな真似をされたとはいえここまでこいつの存在に対して過剰に――しかもそれは決して嫌悪感からではなく――反応してしまう筈が、ない。
ない、筈なのに。
…ああ、畜生。
「…悪い。まだ何か…ボケてるみたいだな、俺」
ぐちゃぐちゃとまとまらない思考を全て熱射病のせいにして、俺は古泉に背中を向ける。もう少しだけ休ませてくれ、ボソボソと呟いた言葉に返されたのはいつもの『yes』の台詞ではなく。
「………っ、」
ふわりと。
慈しむように。
撫でるというよりはただ掌が刹那、触れて。
ああ畜生、これが細くて華奢な女の子の、例えば朝比奈さんの手であったなら。
そこまで贅沢は言わなくともいい。長門でもこの際ハルヒだって鶴屋さんだっていい。
白かろうが形が良かろうが、間違いようもない男の手でさえなかったなら。
ただその条件さえ違っていれば、
俺はこの、身体の内側がぼんやりと暖まるようなこの感覚を何か、何かもっと別のものだと思い込む努力などしなくてよかったのだろうに。