トワイライトメロディ
放課後の教室に暮れた日の光が差し込む。教室の外では開放感のあるざわめきが至る所でひしめき合い、花村はそっと耳を立てた。止め処なく続くざわめき。その折々に一際目立つ、幸せそうな笑い声や甲高い声が滑り込む。これからそれぞれが思い思いの場所へ向かっていくのだろう。それぞれの行き先に、ふたつとない物語が待っている。
止め処ないざわめきをバックミュージックにして、花村は真正面を見つめた。そっと目の前の人物の頬に、触れる。柔らかな感触と人肌の温度を確かめる。安堵を覚える筈の温度、しかし沸き起こる緊張。肌に伝う温度がその手に震えを宿した。無理もない、誰かの肌にとある特別な感情をもって触れるのは初めての経験だ。恋愛感情――というものを抱いて、誰かに触れるのは。
息が詰まりそうなほどに高鳴る鼓動。ぎこちなく頬に触れた手に、相手はしどけなく頬を預けてくる。まるでじゃれつく猫のように甘えた仕草。彼はこうして触れられるのは初めてではないのだろうか。焦っているのは自分だけのような気がして、咄嗟に平静を装うとする。無理やりに取り繕おうとする意識は、結果として動悸を悪化させた。
激しく波打つ心臓に、身体の血の巡りを感じる。心拍数を表したグラフの高低を頭の中で一通り思い浮かべていく。傾斜の強い山ばかりを描く脳内グラフはまさしく異常。このままではいけないと、大きく息を吸って深呼吸。薄く目を瞑った、それと同時に宿る頬の感触。予想だにしていなかった感触に目を見開けば、いたずらに細まった双眸に出会った。互いが互いの頬に触れている。鏡合わせのような体勢。
「…なんだよ」
「震えてるみたいだったから、こうしたら安心するかなって…」
「バカ、余計緊張すんだよ!」
「緊張するって…どうして?俺だから?」
「それ誘導尋問だって分かって言ってるよね、君」
二人の間に小さな笑い声。それがどちらのものだったか分からないまま、どちらともなく笑い出す。折り重なる笑い声が心地良い。今まで身体を蝕んでいた緊張が解けてゆく。こうして屈託なく笑える相手と出会えたのは、そんな相手に想いを寄せる事が出来たのは、本当に幸せなことだ。「初めて」が彼で良かったと思う。フィクションの世界で誰かが言っていたようなチープな感情だが、心の底からそう思うのだから仕方ない。
笑い声はやがて止み、二人の間にまた静寂が生まれる。互いに見詰め合ったまま、頬に触れていた指先が下降するのを感じていた。肌を滑り落ち、辿り着いた先は顎先。柔く握るかの如く顎に触れられる。数秒先の未来に起こる出来事を予測し、相手の頬に触れていた手を離す。自由になった身体は一歩踏み出して距離を詰めてきた。そっと目を閉じた刹那、柔らかな感触を唇で受け止める。
軽く触れた唇を離し息を吐いた。瞼を開いた先、目にした顔は綻んでいる。同じように笑って、そのまま二度目のキスをした。
重大な選択をしている。自身の唇に自身のものでない体温を刻み付けたその瞬間、得たものもあり、同時に失ったものが在るのだ。日々を過ごす間に、日々の折々に、人間は様々な選択に遭遇する。言葉の選択、行動の選択などなど。取捨すべきそれは文字通り色々だが、それによって人生は変化していく。小さな選択を丁寧に重ねて、重ね続けてある日突然、重大な選択を迫られる。
例えばもし彼が稲羽に越してこなければ――きっと出会う事すらなかっただろう。もし自分が彼の申し出を受け入れていなければ――息が詰まりそうなほどに誰かを想うこの気持ちを噛み締める事が出来なかったかもしれない。
幾多の選択肢が示す可能性は膨大だ。突然に選択を迫られ、そして択一しか許されない。悩んだ末に選んだ選択肢の先で、得られる未来は限られている。選択肢の先に踏み出した後に後悔が待ち受けていようともリセットは利かない。現実というものはいつだって残酷だ。その残酷さは重々理解している。
ふと頭を掠める可能性に、一瞬だけ立ち止まる。この先彼といる未来の中で悩む事もあるだろう。畏怖がないといえば嘘になる。それでも目の前の手を取ろうとするのは、一緒にいたいと思うのは、彼といる幸せが本当にかけがえのないものだと思えるからだ。ほら、ここにも選択肢が存在している。そうやって人生は、自分の許可なく続いていく。
教室の外から聞こえてきたそれぞれの声の主も、それぞれの選択を迫られ、悩み、選んだ道へと進んでいるのだろう。彼らがいつ選択を迫られているのか、他人である自分には分からない。ただ、彼らの選択がいつか彼らに歓びを齎しますようにと。柄にもなく平和を願ってしまうのは、心が至極穏やかだからなのかもしれない。
誰もいない教室で共有した選択の中から、恋することを選んだ。目の前にいる相手もまた、同じように。きっと、この瞬間のことを忘れる事はないだろう。彼に初めて触れた日、触れられた場所。窓から差し込む夕日の色や、泣きそうに微笑む彼の笑顔。この記憶をずっと抱えて生きていく―――例えば綺麗な夕焼けを見た日に、ふと今日の事を思い出すのかもしれない。アルバムのように、刻み込んだ記憶は例え色褪せたとしても、きっと心の中に在り続ける。
重大な選択とは、そういう事だ―――一生に残る記憶をつくる事。
「ねえ、花村」
「…ん」
「好き、って言って」
「言ったらお前も言えよ」
「うん、だから…お願い」
一拍間を置いてから、耳元に唇を寄せ―――彼にだけに聞こえる声で囁いた。彼のトリガーを引いたのは紛れもなく自分。息を詰める間もなく唇が触れ合い、やがて濡れた舌の感触が艶かしい刺激となって脳内を侵食していく。がたり、彼の背後の机が音を立てて倒れた。壁に追いやられた今、それはただのバックミュージックでしかなくなっていた。後戻りはもう出来ない、自戒の言葉をもう一度だけ噛み締める。大丈夫、この身を預けても良いと心底思えるのは、他でもない彼だからだ。この気持ちに嘘はない。
保障なんてないけれど彼となら、きっと。願いを乞うような気持ちで相手の手を握る。自分のそれより少しだけ冷たい指先に体温を滲ませて、溶け合わせる。言葉なんてなくとも、互いに同じ気持ちなのだと、そう信じている。
僕らは、日々を過ごしていく。
彼との物語を選んだこの先の未来が、どうか、明るいものでありますように。
(2008.11.3)
止め処ないざわめきをバックミュージックにして、花村は真正面を見つめた。そっと目の前の人物の頬に、触れる。柔らかな感触と人肌の温度を確かめる。安堵を覚える筈の温度、しかし沸き起こる緊張。肌に伝う温度がその手に震えを宿した。無理もない、誰かの肌にとある特別な感情をもって触れるのは初めての経験だ。恋愛感情――というものを抱いて、誰かに触れるのは。
息が詰まりそうなほどに高鳴る鼓動。ぎこちなく頬に触れた手に、相手はしどけなく頬を預けてくる。まるでじゃれつく猫のように甘えた仕草。彼はこうして触れられるのは初めてではないのだろうか。焦っているのは自分だけのような気がして、咄嗟に平静を装うとする。無理やりに取り繕おうとする意識は、結果として動悸を悪化させた。
激しく波打つ心臓に、身体の血の巡りを感じる。心拍数を表したグラフの高低を頭の中で一通り思い浮かべていく。傾斜の強い山ばかりを描く脳内グラフはまさしく異常。このままではいけないと、大きく息を吸って深呼吸。薄く目を瞑った、それと同時に宿る頬の感触。予想だにしていなかった感触に目を見開けば、いたずらに細まった双眸に出会った。互いが互いの頬に触れている。鏡合わせのような体勢。
「…なんだよ」
「震えてるみたいだったから、こうしたら安心するかなって…」
「バカ、余計緊張すんだよ!」
「緊張するって…どうして?俺だから?」
「それ誘導尋問だって分かって言ってるよね、君」
二人の間に小さな笑い声。それがどちらのものだったか分からないまま、どちらともなく笑い出す。折り重なる笑い声が心地良い。今まで身体を蝕んでいた緊張が解けてゆく。こうして屈託なく笑える相手と出会えたのは、そんな相手に想いを寄せる事が出来たのは、本当に幸せなことだ。「初めて」が彼で良かったと思う。フィクションの世界で誰かが言っていたようなチープな感情だが、心の底からそう思うのだから仕方ない。
笑い声はやがて止み、二人の間にまた静寂が生まれる。互いに見詰め合ったまま、頬に触れていた指先が下降するのを感じていた。肌を滑り落ち、辿り着いた先は顎先。柔く握るかの如く顎に触れられる。数秒先の未来に起こる出来事を予測し、相手の頬に触れていた手を離す。自由になった身体は一歩踏み出して距離を詰めてきた。そっと目を閉じた刹那、柔らかな感触を唇で受け止める。
軽く触れた唇を離し息を吐いた。瞼を開いた先、目にした顔は綻んでいる。同じように笑って、そのまま二度目のキスをした。
重大な選択をしている。自身の唇に自身のものでない体温を刻み付けたその瞬間、得たものもあり、同時に失ったものが在るのだ。日々を過ごす間に、日々の折々に、人間は様々な選択に遭遇する。言葉の選択、行動の選択などなど。取捨すべきそれは文字通り色々だが、それによって人生は変化していく。小さな選択を丁寧に重ねて、重ね続けてある日突然、重大な選択を迫られる。
例えばもし彼が稲羽に越してこなければ――きっと出会う事すらなかっただろう。もし自分が彼の申し出を受け入れていなければ――息が詰まりそうなほどに誰かを想うこの気持ちを噛み締める事が出来なかったかもしれない。
幾多の選択肢が示す可能性は膨大だ。突然に選択を迫られ、そして択一しか許されない。悩んだ末に選んだ選択肢の先で、得られる未来は限られている。選択肢の先に踏み出した後に後悔が待ち受けていようともリセットは利かない。現実というものはいつだって残酷だ。その残酷さは重々理解している。
ふと頭を掠める可能性に、一瞬だけ立ち止まる。この先彼といる未来の中で悩む事もあるだろう。畏怖がないといえば嘘になる。それでも目の前の手を取ろうとするのは、一緒にいたいと思うのは、彼といる幸せが本当にかけがえのないものだと思えるからだ。ほら、ここにも選択肢が存在している。そうやって人生は、自分の許可なく続いていく。
教室の外から聞こえてきたそれぞれの声の主も、それぞれの選択を迫られ、悩み、選んだ道へと進んでいるのだろう。彼らがいつ選択を迫られているのか、他人である自分には分からない。ただ、彼らの選択がいつか彼らに歓びを齎しますようにと。柄にもなく平和を願ってしまうのは、心が至極穏やかだからなのかもしれない。
誰もいない教室で共有した選択の中から、恋することを選んだ。目の前にいる相手もまた、同じように。きっと、この瞬間のことを忘れる事はないだろう。彼に初めて触れた日、触れられた場所。窓から差し込む夕日の色や、泣きそうに微笑む彼の笑顔。この記憶をずっと抱えて生きていく―――例えば綺麗な夕焼けを見た日に、ふと今日の事を思い出すのかもしれない。アルバムのように、刻み込んだ記憶は例え色褪せたとしても、きっと心の中に在り続ける。
重大な選択とは、そういう事だ―――一生に残る記憶をつくる事。
「ねえ、花村」
「…ん」
「好き、って言って」
「言ったらお前も言えよ」
「うん、だから…お願い」
一拍間を置いてから、耳元に唇を寄せ―――彼にだけに聞こえる声で囁いた。彼のトリガーを引いたのは紛れもなく自分。息を詰める間もなく唇が触れ合い、やがて濡れた舌の感触が艶かしい刺激となって脳内を侵食していく。がたり、彼の背後の机が音を立てて倒れた。壁に追いやられた今、それはただのバックミュージックでしかなくなっていた。後戻りはもう出来ない、自戒の言葉をもう一度だけ噛み締める。大丈夫、この身を預けても良いと心底思えるのは、他でもない彼だからだ。この気持ちに嘘はない。
保障なんてないけれど彼となら、きっと。願いを乞うような気持ちで相手の手を握る。自分のそれより少しだけ冷たい指先に体温を滲ませて、溶け合わせる。言葉なんてなくとも、互いに同じ気持ちなのだと、そう信じている。
僕らは、日々を過ごしていく。
彼との物語を選んだこの先の未来が、どうか、明るいものでありますように。
(2008.11.3)
作品名:トワイライトメロディ 作家名:nana