スズメの足音(前)
日々の練習メニュー、新入生歓迎会での部長スピーチの内容や、離脱しているメンバーを除いた状態で試合に臨む場合のあれこれ。ちょうど同じクラスだったおかげで休み時間も自習時間も大地の机に椅子を寄せて、広げたノートの上で頭をつき合わせていた。大抵のことは大地が一人で考えて決めていて、それを俺がチェックする。経験の浅い監督に意見を求められない代わりに「うん、それで大丈夫」と言うのが俺の役目だった。
新年度になって、入部早々に影山と日向が揉め事を起こした。そのペナルティを受けた二人をサポートするために休み時間を割くようになるまで、これといって用がなくても一緒にいた。あの頃は大地にだけは打ち明けられないことなんかなかった。
「アイツら元から才能とか、身体能力は飛び抜けてたけど、二年前は一緒のコートで戦ってたんだよな」
「うん」
「今じゃ俺たちの手の届かなかったところまできてる」
「……うん」
二つ年下の影山飛雄は天才だった。同じセッターの俺はあっという間にポジションを奪われる形になったけど、強豪相手の試合でボロボロになった影山に代わって出場したこともあった。あの時はまだ天才影山にできなくて、天才でも何でもない俺に出来る事があった。
「アイツらがここまできて、これだけ戦えてることが嬉しいんだ」
「俺も嬉しいよ」
「ああ。…………でもさ、」
空調機の音に混じって深く息を吸う音がする。
「悔しいんだ」
「…………大地」
「もっと何か頑張ってたら俺達の代であそこまでいけたんじゃないかって思ってる。アイツらと一緒に」
「………………」
「もう高校で、あのメンバーで試合はできないのに、二年も経つのに悔しくて堪らなくなる。もっと勝ちたかった。出来る限り努力したはずなのに、まだやれたんじゃないかって後悔が溢れてくる」
喘ぐように天井に向かって伸ばされた腕は卒業しても筋肉が落ちていない。体質のせいかあっという間に細くなった自分とは大違いだ。バレー部員としては小柄だった分を補おうと筋トレに励んだこともあったけど、旭のような腕力がつくことはなかった。
「…………影山たちさぁ、いつも俺よりずっと走ってたんだよな」
ぽつりと言うと大地が振り向く気配がした。
相棒でありライバルである日向と競い合っているうちに決められたメニュー以上に走っていたり、他の皆が休んでいる間にも走り込みに出ていた。元から体力がある二人だったから出来たことでもある。無理に同じ量の練習をしたら同じようにやれたわけでもない。同じになる必要もなかったけど。
「そんなヤツだからここまでこれたんだって納得もしてるんだ。でも、大地の言うこと、わかるよ」
先輩が引退してやっと正セッターと呼ばれるようになったのに、あっという間に入部したての影山にポジションを奪われた。悔しいのに影山のストイックさを見ていると妬むことすら許されない気がした。結局、チームの一員として自分にできることを見つけることができたけれど、負けたくない気持ちと勝てないと思う気持ちはいつも折り合いが付けられないまま胸の底にあった。
「引退の時に全部出し尽くしたってぐらい悔しがったのにまだこんな気持ちになるんだな」
口にしたら部活を引退した高三の日に逆戻りしたように鼻の奥がツンときた。
どう考えても手に入らないものが欲しくて辛くなることって滅多にない。だからこれは多分、今の悔しさじゃなくて二年前の悔しさだ。
「俺ももっと大地と、旭と、……みんなと同じチームで勝ちたかった」
引き返して続きの出来ないもどかしさが、明日もコートに立てる後輩を羨む気持ちになって両手を乗せた胸にのしかかる。息苦しくて浮かした手を大地と同じように伸ばしたら、ほんの少し横へ振るだけで大地の手を取れそうだ。そんな妄想が浮かんですぐに下ろした。
卒業式の日にも衝動にかられて大地の手を握ったけど、今は別れの握手なんて場面じゃない。我ながら意味の分からない行動だった。なんとなく、戒めのつもりで胸の上に戻した手を握りしめた。そうして自分相手に戸惑っていると、滲んだ感傷が引っ込むんだけれど、大地は握りしめた拳を悔しさのしるしだと解釈したらしい。
子供にするみたいに頭を撫でられて何だか胸が詰まった。
「昨日、気づいたら寝ちゃっててさぁ。二人とも何時に寝た?」
「旭が寝てすぐ寝た」
「ホント?俺いびきとかかいてなかった?」
「騒音公害ってぐらい歯ぎしりしてた」
「ウソだっ!」
空になった味噌汁の椀をテーブルに叩きつけながら旭が叫んだ。
「大体すぐ寝たって大地言ってただろ!ウソだよな?スガッ」
嘘だと思っている割にはすがるように振り向くので深刻そうな表情を作って答える。
「いやぁ、歯がすり減って試合観戦返上で歯医者に行くことになるんじゃないかってくらいすごくて…」
「――――っ!スガまで!」
大地が旭にも、おそらく誰にも、昨夜の話をする気がないようだったから。
仲間はずれにするわけじゃないけど、旭の聞いていないところで大地に打ち明けた情けない本音がたくさんある。逆は珍しいけど、わざわざ口止めしなくてもお互いに言いふらさなかった。カッコ悪いところを見せるのは一人で十分だったし、大地は口が固かった。
朝食を終えて決勝トーナメント戦一日目、試合会場へ向かった。
決勝トーナメント進出が決まってから急遽駆けつけたという烏野商店街チームの滝ノ上さんと森さん、嶋田さんと合流した。嶋田さんは「帰ってからが怖い」とぼやいていたのでかなり無理をして来たんだろう。でも、烏野高校バレー部にとっては、日向が小学生の頃に見て憧れた小柄なエース、小さな巨人の時代以来の快挙だった。当時を知っている人にとっては、日向達と一緒だった俺達とはまた違う思い入れがあった。
決勝トーナメント戦の対戦校は昨日の予選に比べると格段にレベルが上がっていて、影山と日向のコンビも苦戦を強いられていた。それでもギリギリのところで勝ち抜き、コートに残った。
明日も勝てる。昨日の勝利の勢いを信じていた。
でも、一日目、二日目を勝ち抜いたどの高校だって勢いを感じている。その中でも三日目を勝ち残れるのはごく僅かで、ほとんどのチームが敗退。最終日にはたった一校しか残らない。
烏野は三日目、決勝トーナメント二日目でコートを去った。一緒に過ごした一年当時から冷静だった月島の目の前でボールが落ちて、思わずといった様子で床を拳で叩いた彼らしくない姿が印象に残った。
挨拶を終えて撤収する途中でどちらからともなくコートを振り返った影山と日向の表情は見えなかった。
「春高がある」
応援していた輪の中で、誰からともなく声が上がった。
冬の寒い商店街の電器店の前で、偶然通りかかった少年が黒いユニフォームで跳んだ選手の腕の一振りに釘付けになる。そういう出会いが昔あった。説明の上手くない日向に聞いた話だけど目に浮かぶようだと思った。
昔ながらの個人商店が集まった商店街。地元の高校の快挙を町全体で喜んで垂れ幕を飾り、電器店の大きなテレビで店番のおじさんが春高バレーを流す。