無題
「すまんな、トシ。誕生日まで仕事になっちまって」
「別に毎年のことじゃねぇか。それに誕生日だから休みたいとは思わねぇよ。女子供じゃあるまいし」
誕生日が楽しみだったことなどあっただろうか。子供の頃でさえ、誕生日は退屈で長い一日でしか無かった。
「そうか?俺は誕生日は休みたいぞ」
「あんたはそうだろうよ」
土方は溜息を吐いてその会話を終わらせ、足を早めた。
屯所に戻ると、門前にも小さな鯉幟が飾られていた。近藤がそれを見て「お」と嬉しそうな声を上げるのを無視し、門を潜る。門番についていた隊士が背を正し二人を迎え入れた。
「三時になったら会議だ。それまではあんたも休めよ」
庭に面した回廊を自室へと向かいながら、土方は言った。
昼寝をするには良い陽気だ。
庭に咲いた躑躅の赤紫が寝不足の目に染みる。気付けばいつの間にかハナミズキは散り、紫陽花が瑞々しい青葉を茂らせていた。見るともなしにそれを見ていると、隣にいた近藤が不意に足を止めた。つられるように立ち止まり、近藤の視線の先を見る。
近藤の部屋から一匹の三毛猫がのそりと出てくるところだった。猫は二人に気付きちらりと視線をくれたが、素っ気無く目を逸らし回廊を横切って庭に下りて行ってしまった。
「…近藤さん、また餌でもやっただろう」
土方は呆れ、近藤の顔を睨んだ。
近藤が、屯所に迷い込んだ野良猫を見かけては餌をやっていることは知っていた。
猫は図々しいので、招き入れられれば次からは遠慮なく家に入り込むようになる。そう言って注意しても、近藤は土方の目を盗んで猫に餌をやる。
「良いじゃねぇか。猫くらい」
近藤は土方の視線にわざとらしい笑い声を上げ、そそくさと自室に向かっていった。そうして戸を大きく開き、ぴたりと動きを止めた。
「どうしたんだよ、近藤さん」
訝しく思い、近藤の背後から部屋の中を覗き込んで、土方は思わず笑った。
近藤の部屋に置かれた文机。その下に置いてあった文箱の中へ、猫が糞をしていた。真新しいそれは湯気でも立てていそうな様子で、強烈な臭いを漂わせている。
先程の猫が犯人と見て間違いないだろう。
「気の毒なことだな」
土方は近藤の肩を叩き慰めた。
これで近藤も猫に餌付けをしようなどと思わなくなるだろう。
近藤ががくりと肩を落とし、部屋の戸を閉める。
「トシの部屋で休ませてくれ」
「糞の始末はどうするんだ」
「後で山崎にやらせる」
局長らしい威厳さを無駄に発揮し、近藤が重苦しく言った。土方はそれに小さく肩を竦めて応え、近藤の部屋の隣にある自室へと入った。
上着を脱いでスカーフを取り去る。そうするとやっと息が抜けたような気がして、胡坐をかいて座り取り出した煙草に火を着けた。近藤も上着を脱いで、手で胸元を扇いでいる。
「恩を仇で返されたな。所詮畜生だから、一飯の恩義なんか感じねぇんだろうよ」
天井に向かい煙草の煙を吐き出して、土方は言った。近藤が腕を組み、しかめつらしい顔をする。
「そんなこたぁねえ。犬猫でも恩は忘れないもんだ」
それは近藤らしい言葉ではあったが、今回に限っては負け惜しみにしか聞こえず、笑いたくなる。土方は薄い唇の端を上げちらりと近藤を見た。
「ふん、そんなもんかね」
じりじり燃やした煙草を灰皿へ押し付けて消し、庭に目をやる。穏やかに吹いた風がさわさわと木々を揺らし、瑞々しい香りを運んできた。
連休で方々に隊士が駆り出されているので、屯所内はいつもよりもずっと静かだ。黙っていれば眠くなってきて、土方は欠伸を噛み殺しながら、近藤に背を向けて寝転んだ。すると、背中に寄り添うものがあって、呆れて閉じかけていた目を開ける。腹に回された腕に「暑苦しい」と溜息を吐けば、「いいじゃねぇか」と笑われ余計に強く抱き寄せられて、土方は閉口した。
「なぁ、トシ」
「なんだよ」
「やっぱり猫は恩返しすると思うぞ」
「糞されたってーのに、呑気なもんだな」
近藤を引き剥がすことを諦め大人しく腕の中に包まった土方の耳に、少しかさついた唇が押し付けられる。ちくちくとした髭の感触に肌が粟立ち、土方は顔を逸らした。近藤はそれが面白かったように顎を土方の首筋へ擦り付けると、ちゅっと音を立て土方の肌を吸った。
「猫のおかげでトシとこうやって一緒にいられるだろ」
幸せそうな声でそんなことを言うので、土方は溜息を吐いた。
「猫に糞なんかされなくたって、あんたが望めば一緒にいてやるよ」
そう言ってやると、近藤は少し考えているように黙った。そのまま寝てくれないかと思いながら目を閉じた土方の額を撫でる、温かくて大きな手の平。少し汗ばんでいて気持ちいいわけもないのに、それは幼い頃の記憶を呼び起こさせ、土方をいたたまれない気分にさせた。
「トシは、俺と一緒にいたいと思うか」
生真面目な声で問われ、「ああ」と短く答える。
「じゃあ、今日はこうしてずっと一緒にいようぜ。特別な日だからな。俺もトシが望むようにしてやりたい」
近藤が嬉しそうに笑って、そう言った。ぎゅっと手を握られ、痛いほどに抱き締められる。
「誕生日おめでとう、トシ」
誕生日など、特別なものではなかった。けれど、近藤の一言が、この日を土方にとって特別な日に変えていく。
それならば自分は、近藤と出会ってから生まれたようなものだ。
そんなことを思って、土方は仕方なく笑った。
「祝いに酒でも奢ってくれよ、近藤さん」
近藤の手に口付け、土方は目を閉じた。温かく、鬱陶しくも感じるような近藤の熱が、今は心地良かった。