星は歌う
星の声はとても小さいから、新月の夜でなければ聴こえない。
ハンガリーの歌は、それと同じなのだと兄は言った。
嵐の後のよく晴れた、月の無い夜。無数の星が音もなく降り注ぐように輝く、そんな特別静かな夜にだけ、古い楽器がひとりでに響きだすかのように、ハンガリーは歌いはじめるのだという。
「彼女は日頃からよく歌を口ずさむひとだったように思う」
そう反論すると、兄はニヨリと笑ってそれは違うと首を横に振った。
それは“本当の”ハンガリーの歌じゃない。
ハンガリーが本当に歌うとき、それは彼女が歌おうとして歌っているのではない。
もっと大きな、目に見えないなにかが、彼女のちいさな身体にすべりこみその声帯を震わせるのだと、大真面目に兄は言う。 歌は大気に溶け草原を遥かに渡り南の海を越えて、見知らぬ国に届きそこに住む子供の頬を優しく撫でる風になる。
幼い頃からずっと、彼女が歌いだす度に兄はそう考えていた。だから彼女が歌い出しそうな夜には、いつもの喧嘩を我慢して隣で息を止め全身を耳にして、じっと待っていたのだと。
「ちょうどこんな夜だ」
月の無い晴れた夜だった。風が薙ぎ降るような星が静かに瞬いている。
「惜しいな。何十年に一度の夜だ。今日みたいな夜なら、きっとあいつの歌がきけるんだがなあ」
「そうか。一度聴いてみたいものだな」
「難しいぜ。ずいぶん辛抱強く待たなくちゃならない。あいつの本当の歌を聴くことができた奴は人にも国にもめったにいないはずなんだ」
星空を見上げ得意気に笑う兄の話しぶりは、痛み止めのモルヒネのせいか、珍しくとりとめもない。朦朧とする意識を晴らそうと時折重たげに頭を振り、瞬きすらもどこか緩慢だった。
「畜生、寒いな」
「少し寝たほうがいい。見張りは俺がやる」
「いいからもう少し付き合えよ」
鼻歌でも歌いそうな軽い口調だったが、兄の右腿の銃創は太い動脈に達し草叢に赤黒い血だまりをつくっている。普通の人間ならば致死量の出血だから、今意識を手放すのが嫌なのだろう。人のようには死なない身体、しかし兄のように人と国との距離が近かった時代に生まれた古いものたちは、どこか無意識に人間と同じように振る舞う癖があった。
「なあ、お前がこの世に現れた時、ハンガリーは歌ったんだぜ」
ここにはいない彼女の姿を描いているのだろうか。常日頃めったに昔話などしない兄の、厳しい瞳の奥がほんの少しだけ和らぐ。
「お前を一目見た時に、ハンガリーは緑の瞳から透明な滴をぼろぼろ零し歌いはじめた。新月の夜以外にあいつが歌い出すのを、俺ははじめて聴いたんだ」
何百年途方もない昔から心の底に厳重にしまいこまれた古い物語を、そっと大事に取り出すようにして、どこか誇らしげに兄は言う。
「ドイツ、お前は俺たち民族の夢だ。覚えておけよ。神に、世界に祝福されて、お前はこの世に迎えられたんだ」
「――」
血の気を失った唇から流れ零れ落ちるお伽噺のような物語。そのあまりの美しさに、声もなくドイツはただ頷いた。
新月の夜にしか聴こえないという星々の歌も。ひとりでに響きだす楽器のようなハンガリーの歌も。それらに憧れるようにして兄が紡ぐ優しい物語も、きっとよく似たものに違いないとドイツは思う。
密やかな旋律は小さすぎて、普段は聴こえない。
けれどどんな時も確かに絶え間なく、歌い続けられているのだと。
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