花の名前 終章
目を閉じていてもなお眩しいその光に、大神は知らず知らずのうちに眉根にしわを寄せる。
重たい瞼をこじ開ける様に開いて瞬きを二つ。
そうして少しだけ明るさに慣れた目に映ったのは、しみ一つない真っ白な天井。それをぼんやりと見上げながら、大神は心の中で首を傾げた。
ここはどこだろう、と。
目を通して入ってくる情報にまるで思考が追い付かない。
ついさっきまで、空を見上げていたはずなのにーそんな事を思う。
誰よりも愛おしい少女と一緒に、澄んだ青を横切る飛行機雲を見ていた。それなのに何故自分は今、こんな所で横になっているのだろう?
ー本当は、分かってる。
戻って来たのだ。己が居るべき世界へと。過去の世界へ、彼女を置き去りにして。
目を、閉じる。こんなにも突然に彼女の前から消えてしまった事実を思うと、ただ、心が痛かった。
どのくらいそうしていただろう。目を閉じているうちに、どうやらいつの間にかまた眠ってしまっていたようだった。
けだるい眠気をまとわりつかせたまま、大神はぼんやりと目を開けた。
瞬きをし、それから不意に、己の右手が暖かく包み込まれている事に気付く。驚いて、顔をそちらに向けると、そこには彼女が居た。
柔らかな金の髪の、誰よりも愛しい人。その人は祈る様に大神の右手を抱いたまま、静かな寝息を立てていた。
「ーマリア」
その名前を口にするだけで心が震える。
そして思うのだ。自分がどれだけ彼女の事を好きなのかと言う事を。
身じろぎをして、彼女が目を開ける。
翡翠の美しい瞳が、真っ直ぐに大神の顔を映した。驚いた様に見開かれた瞳が、ゆっくりと細められて、彼女は心から嬉しそうに、安堵した様に笑った。
「隊長…」
「ごめん…なんだかまた君に心配をかけたみたいだ」
不思議なくらいかすれた声で返して,触れあった手にそっと力を込めた。
「本当です。心配しました。とても…私も、みんなも」
「うん…ごめん」
目を、閉じる。それからマリアの事を思った。過去の、そして現在の。
「隊長?大丈夫ですか?どこか、痛みますか?」
不安そうな彼女の声。
隊長、と、彼女の声で呼ばれるのはずいぶん久しぶりのような気がする。妙にくすぐったい。
「ー参ったな」
大神は困った様に笑った。
「どうしたんですか?」
どこまでも真剣に、それから少し心配そうに彼女が問いかける。そんな彼女を、大神は愛しそうに見つめた。
前よりもずっと、彼女の事が好きだった。彼女が大切で、愛おしくて、どうにかなってしまうんじゃないかと思う位に。
溢れんばかりの狂おしい思いーけれど、口に出せないまま、思いを込めてマリアの目を真っ直ぐに見る。
翡翠の瞳は今も昔も、変わらぬ美しい輝きをたたえている。ただその輝きは流れた年月彼女が得た様々な経験の分だけ深く、柔らかで暖かい。
「いや、なんでもないんだ」
大神は緩やかに首を振った。
マリアもあえてそれ以上の追求はせずに、そうですかーと微笑んで立ち上がる。
「マリア?」
見上げた大神に、
「みんなに知らせてきます。隊長が目を覚ましたって。とても心配していましたから」
答えるマリア。
そのまま離れていこうとした彼女の手をそっと握って引き止め、
「もう少しだけー」
小さな声で。
まだ、君が好きだと伝えるだけの勇気はない。だけど今はただ、彼女に側に居てほしいと思うから。今ある精いっぱいの勇気で伝える。
「もう少しだけ、このままー。君と、二人で居たいんだ。駄目かい?」
「た、隊長…」
少しうろたえたようなマリアの声。柔らかな頬に朱が昇り、戸惑いを含んだ眼差しが大神を見つめる。照れくさくて仕方が無かったが、大神は目をそらさなかった。真っ直ぐに彼女の目を捕らえたまま、じっとその答えを待つ。
「…分かりました。後、少しだけー」
火照った頬をそのままに、マリアは微笑んで再びいすに腰を降ろした。
穏やかな昼下がり。
大神はふと思い付いた様に、マリアの名を呼んだ。
「マリアー」
「はい」
「いつになるか分からないけど…君に贈りたい花があるんだ。ー受け取って、もらえるかな…?」
「…はい」
マリアは笑ってくれた。心から、幸せそうにー
いつかきっと、君を好きだと伝えようー
両腕いっぱいに、白い花を抱えて。
君と出会えて、本当に幸せだって、そう伝えたい。
そして、いつかまた、一緒に見上げられたらいいと思う。
真っ青な空に鮮やかなコントラストを描く、一筋の飛行機雲をー