足踏み
腕に抱いた女はいつも従順でたおやかで、大人しくそれが自分には似合いだと思っていた。
秋元はその自己分析に自信を持っていたし、嫌いだと思うものをあえて好きになる努力など無駄だと思っていた。
間違っていない。その一念を覆すのに実にどれ程の年月が費やされたことか。
「……って、聞いてます?」
僅かに眉を上げ怪訝な顔で見下ろしてくる佐々木瞳の顔を見上げ、秋元は目を細めた。
途端に視線が身構えているのが分かる。
嫌味を言われると思っているのだろう、秋元はそう分かって居ながら口が滑るまま言葉を吐き出していた。
「聞いてるよ、わざわざ確認するな」
いつも通りの偉そうな物言いに瞳は怯まない。
「すみませんでした。上の空に見えたものでしたから」
「うるせー」
「じゃあ続けますね」
黙って嫌味を言われるままで終わらない、余計な一言。昔ならそう思っていただろう。
正確にはつい最近まで思っていただろう。
だというのに、ここ最近はその余計な一言が可愛いとさえ思える。
懐かない野良猫を疎ましく思っていたら、いつの間にか手懐かせたくなったという感覚とでもいうのか
フーッと毛を逆立てる様子を見てるいるのがクセになってきている感覚に似て。
(どんなドエムだよ、俺は)
胸の内での自分への突っ込みは弱々しく、今一人なら頭を抱えてデスクに突っ伏していただろう。
「……というわけです」
「あー、ハイハイ。いいんじゃないですか」
適当に答えた言葉は高いフロアの天上の隅に向けて
自分でもコントロールが付かない暴走気味の心を持てあまし中
秋元は、ハァと言う瞳の溜息に気づき、呆れた表情を浮かべた鼻先に視線を止めた。
寄せられた眉間から綺麗に通った鼻筋、形の良い小鼻
その瞳の小さい鼻先を突いてやりたいという衝動が沸き上がってくる。
(なんだよ、その新婚みたいなシチュエーションは!)
自分への罵倒が表情に出ていたのだろう。瞳はまた溜息をつく。
「なんだよ」
「そんな挑むように睨まないで下さい。折角説明してるのにちっとも聞いてくれないんじゃ溜息だって出てもおかしくないでしょう」
「別にあんたを睨んだんじゃない」自分にだ、とは言えるわけもなく
「睨んでたくせに……いいですよ。じゃあコピーしちゃいますから」
ツンと上げられた顎が怒りを表し、華奢な背が向けられるまま、秋元は今日もこんな調子かと頭を掻きむしりたくなるのだ。
喧嘩が楽しいわけがない、嫌われている素振りを見せられるのに快感を覚えているわけじゃない
それでも誰にでもにこやかで明るい瞳が唯一自分にだけ負の感情を表すのに、ちょっとした喜びが無いでもない。
そしてまた、だからといって喧嘩が楽しいわけじゃないと否定するのだ。
秋元とて好きだと意識した女性ににっこりと笑顔を向けられたり、頬を染め照れたり――とそんな甘やかな応対をされたいという欲求はある
あるが、それを引き出す男としての技が瞳にだけは何故か出ないのだ。
とんだ不器用
(小学生の初恋かよ)
秋元は再び自分への突っ込みをして、去っていくだろう背中から視線を逸らした。
「……ん?」
背中の神経に集中させ、瞳が去る気配を探っていたというのに、何故か瞳は立ち去ることをしない。
おかしいと思い僅かに振り返れば――
俯いた様子で立っている後ろ姿がそこにはあった。
「おい、どうした?」
自分の慌てて震える声に気付かず立ち上がりかける。
「佐々木?」
肩をつかみ振り返らせよう、そう伸ばした手は宙を滑り
「秋元さん……」
おずおずと、いつもはっきりとした口調の瞳らしからぬ探るような呼び方に、秋元の胸はドキリと簡単に弾んだ。
「もしかして」それだけで途切れた言葉に、まさかと小さくつぶやく。
だが、その呟きは吐息よりも小さく瞳に届かず。
ちらりと横顔を見せた瞳は俯いたまま視線だけを探るように投げかけてくる。
それは切なげ表情にも見え、弾んだままの胸の鼓動が一瞬止まったのではないかという痛みが体中を駆けめぐった。
「さ、佐々木」
上げっぱなしだった手を瞳のなだらかな肩に再び伸ばし――
(そんな女の表情すんじゃねぇよ)と心の中だけで悪態をつく
自分の秘めた想いに気付いたかもしれない
そう期待は止まらない。
こんな人が見ているかもしれない場所で告白等という、恥ずかしいことはするつもりはさらさら無い。
だが――と秋元は口元を僅かに緩めた。
このままどこか二人きりになれるような所へ誘い出すチャンスなら今かもしれない。と自然と目を細める。
「お前、こんな所で」そう囁いた時、秋元の普段は聞かれないだろう柔らかな声を、瞳の真剣な声がかき消した。
「秋元さん、正直に言って下さい」
半身だけを向けていた体を秋元に向け、声を抑えるように僅かに身を屈めた。
そっと口元に手をあてた仕草に目が奪われる
ゆっくりと開かれる唇の動きを見つめ、白い歯の間から覗く舌先に吸い込まれそうになっていた。
「お腹痛いんですか?」
「はぁ?」
頓狂な声に、フロアのあちらこちらから視線が飛んでくるのが分かった。
瞳も気付いたのだろうきょろきょろと辺りを見回す。
「あ、いえ……体調が悪いんじゃないんならいいんです」
ふつふつと沸き上がる怒りは、冷静になればぶつける相手が違うぞと判断できただろう。
だが、大事な仕事の話をしている時にすら頭から離れない瞳への気持ちを持てあましている中、思わせぶりな表情と口調とでふくらみかけた期待を裏切られたと秋元は瞬時に判断した。
いや、瞬間に怒りが沸騰した。
「なに言ってんだ?」
怒気を露わにそう言えば、切なく震えていた睫がピンと上がり、作り笑顔を浮かべるではないか。
「いえ〜、もしかしてと思っただけです」
そう言った声は作られた愛想でコーティングされ
「はっきり言えよ」
追求する声はイライラと尖り
「さっきお裾分けしたおやつ、今気付いたんですけど、賞味期限きれてたかもしれないと……」
逸らされた視線の先では、腹を抱え走り出す中田の姿。
「かもじゃなくて、ばっちり切れてんじゃねーか!」
「ごめんなさい。悪気があったわけじゃないんです」
「あぁん? どうだかなぁ、食い物で恨みを晴らすってーのは昔からよくある女の手だしな」
「酷い、わざとじゃないって言ってるのに」
「どうだか」
ついと逸らした視線の先では、衛藤今日子がニヤリと笑っていた。
(なんだよ!)睨みをきかせ反対を向けば、そこにはニコニコと善良そうな笑顔を浮かべた雷太が居た
「……っ! あ〜、腹が痛くなったな。ったく」
投げかけられる見透かされた笑顔が居たたまれなく、そんな嘘をついて席を立ち上がり、今度は秋元が瞳に背を向けた。
止まることなく歩く足は速くなるばかり。
「秋元さん」と心配そうに呼ばれた気がしたが、その声に振り返りはしない。
これは逃げるんじゃない、喧嘩をしたくないだけだと自分に言い訳をして
(なんなんだよ!)
その言葉を口に出さず胸の内だけで叫んだのは、彼の高いプライドのおかげ――かもしれない。