いつか来る日に
廊下を急ぎ歩き、その勢いのままに襖を開け放った。
ばん! と大きな音をたてて開いた襖に、部屋の中で文机に向かっていた仙蔵の視線が入り口に立つ文次郎の姿を一瞥し、また机の上の書物に戻る。文次郎はおざなりに襖を閉めると、狭い部屋の中を足早に歩き、仙蔵を後ろから抱き締めた。
「忍者馬鹿の癖に三禁はどうした」
仙蔵が腕の中でくるりと器用に体の向きをかえながら問う。その声はいつもと全く変わらない平淡なものだ。文次郎は仙蔵の首筋に顔を埋め、抱き締めている腕の力を強くする。仙蔵は為されるがまま、嫌がる素振りは見せないが、その腕が文次郎を抱きしめ返すことはなく、両側に下ろされている。
「溺れなきゃいい」
「屁理屈だな。お前にしては珍しい」
そういう声がほんの僅か笑う。それだけで文次郎の胸は弾む。単純なものだ。
「お前のがうつったんだよ」
言葉を交わす時間すら惜しく、乱暴に押し倒す。文次郎より一回りも細い身体は抵抗もなくあっさりと畳の上へ倒れ込んだ。
「非生産的行為だな」
畳の上、鮮やかに笑いながらも、自嘲するかのように呟いた唇を塞ぐように、乱暴に口づける。
こうして仙蔵に口づける度に、文次郎はこのまま目の前の男の呼吸をとめてしまいたい衝動にかられる。愛を注ぎ込んで、愛に溺れて、そうして死んでしまえばいい。戦場で泥と血に塗れ、行方すら分からずにいなくなってしまうよりもずっといい。たとえ仙蔵が物言わぬ躯になったとて愛し続ける自信はある。仙蔵が望むなら一緒に死んでもかまわない。
苦しくなったのか、細い腕が離れようと胸板を押す。けれど、体格差と現在の体勢ではそれは叶わない。諦めたのか仙蔵の腕は文次郎の体から離れてほんの少し宙をさ迷い、その指先が畳に抉るかのように突き立てられた。
仙蔵はどんなに辛くても決して他人に縋ることをしない。
その腕を自分の体に回してくれたなら、その爪を自分の体に突き立ててくれたなら。有り得ないとはわかっていても、文次郎は行為の度に密かに期待し落胆する。
もし指の一本、爪の先だけでも向けてくれたなら。不透明どころか真っ暗に見える未来とて共に歩んで行こうと言えるのに。気休めで、叶うことのない未来でも学園にいる間は許されよう。どんなにプロに近いと言われたって自分たちはプロではない。
夢を見るのは子供の特権だ。
仙蔵
すたすたと足早にこちらに向かう足音が聞こえる。誰かはすぐにわかった。仙蔵は手元の書物の字を追いながらも、珍しいなと頭の片隅で考えた。忍者という職業に大きな憧れと尊敬を持っている彼はいつも馬鹿正直に授業で教わったことを実践している。学園内を足音を立てて歩くようなことはあまりない。
その足音は部屋の前で止まり、同時に襖が大きな音をたてて開いた。仙蔵はちらりと視線を向けて、やはり文次郎であったことを確認するとまた戻した。
足音の主がこちらにやってきたかと思うと、後ろから抱き締められた。
まるで捕らえるかのように体に巻き付けられている腕がほどかれないように注意を払いながら、体の向きをかえる。背後を取られているのはなんだか癪だ。そうして行動に理由をつけて自分の気持ちにまた一つ嘘をつく。首筋に埋められた顔に、胸が高鳴る。けれど、さらに強く抱き締めてくる腕に、その体を抱き締め返すことはしない。
「溺れなきゃいい」
声が近い。学園一忍者しているお前がそんなことでいいのか、という言葉は出てこなかった。
短い会話の後に乱暴に押し倒された。抵抗はしない。嫌悪感もない。けれどその理由は考えない。それなのに自分を求める文次郎にどうしようもなく込み上げてくる愛しさが隠しきれない。
「非生産的行為だな」
こぼした呟き、何の返答もなく与えられた乱暴な口づけでさえも愛おしい。末期だ。いっそのことこのまま共に死んでしまいたいとも思う。そうして誰にも脅かされることのない世界に行きたい。文次郎と一緒ならば地獄すら恐くない。
しかし、本能は生を求める。半ば無意識のうちに腕が文次郎の胸板を押す。それでも、終わる気配はない。いっそのこと殺してくれたら。この男の腕の中で死ねるならそれでもいいと思う。これは愛なのだろうか。倒錯した感情は複雑すぎて自分のものなのに制御しきれずに持て余す。文次郎は一体、どう思っているのだろう。
聞くことはしない。気持ちを伝えることもなければ、強要もしない。それは二人の間の暗黙の了解であり、二人を繋ぐものでもあった。愛だの恋だのという、今いち現実味のない言葉で表してしまったらそこで終わってしまいそうな気すらする。
それは嫌だ。そんな薄っぺらい関係にはなりたくない。恋人になりたいわけではない。友人でもただの同級生でも構わない。ただ一緒にいたい。一緒にいるこの時間を失いたくない。それだけだ。けれどそれが叶わないのはわかっている。
腕をあげかける自分を心の中で叱咤する。畳に爪を食い込ませて、抱きつきたい衝動に耐える。慣れは毒だ。そう遠くない未来、抱き締めてくれる腕がないのに悲しむのは私だけでいい。
いつかくる別離が朧気に浮かんだ。